衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

「春の福を待ち兼ねる」——資源活用事業#34

植戸万典(うえとかずのり)です。待ち兼ねた春と恨めしい花粉のジレンマを抱えた一人です。

花粉の時期の終わりが待ち遠しいですが、そのくらいの時期になるとそろそろ梅雨の終わりが待ち遠しくなり、またさらにその頃になると秋の涼風が待ち遠しくなるのだろうな、と半ば諦めています。
世の中、待っているだけではなかなかままならないものです。

コラム「春の福を待ち兼ねる」

 春節の中華街では龍が舞う。皇帝や駿馬の喩えにも使われて誰もが知るそうした「龍」とは、古代のワニだった。これは青木良輔著『ワニと龍』で有名になった説だ。もし本当なら、日本にも「龍」がいたことになる。
 「わに」は日本神話にもしばしば現れる。稲羽の素兎に騙されたり、山幸彦の海と陸の往還を助けたり、豊玉姫がその姿に変化して山幸彦との子を産んだりしている。爬虫類のワニは日本列島に棲息しないため、ここでの「わに」はサメのことだとよく説かれるが、それには古くから異論も多い。大陸や南洋のワニの情報が反映したものとも云われる。
 否、そもそも日本列島にもワニ類はいた。マチカネワニという、全長七メートル前後と推定される太古の巨大なワニだ。化石が発見された大阪の待兼山にちなんで命名された。世界的にも貴重な発見で、近縁種が中国にも分布していたことも近年の発掘調査によって明らかとされている。そして、そうしたワニこそ龍の正体だと青木氏は見ているようだ。
 『史記』に夏王朝の孔甲が龍を食べる話のあるように、古代中国で龍とは現実的な動物であり、それはマチカネワニの同属だったが寒冷化によって姿を消したことで伝説化して神獣となった、ということである。
 「わに」はワニで、龍はワニなら、神代の「わに」は龍だとみなせなかろうか。つまりワニの棲息した古代の日本には龍が存在したのだ、と。現に『日本書紀』は豊玉姫が化身したのは「龍」だと記述しているのだから、神武帝は「わに」の子孫であるとともに龍の子孫でもある。ちなみにマチカネワニは学名「トヨタマヒメイア・マチカネンシス」だ。
 もっとも、仮にそうだとしてもそれは今日我々が共通に理解する神格化した「龍」とは全く別物だろう。ワニは空なぞ飛ばないし、球を七つ集めても願いなぞ叶えてくれない。本邦の「龍」はワニとしてではなく、中国の神獣や仏教の龍王などとして伝わり、在来の大蛇と習合したものだ。さらに独自の信仰も形成し、由緒と縁深い社寺は今なお多い。
 ただし藤本頼生氏の論文によれば、戦前の神祇院は、社名や祭神名に仏語を使うものは不適当で是正すべきとしており、そこで例示されたものには龍蛇神や龍王も含まれていたそうだ。これは、社伝で龍神とされていても祭神名としては帝国の神祇に相応しい表現が求められたということだろう。確かに、彼の女神が祭神の神社でも「わに」を祀っているわけではないな。まぁ、それでも特別視してしまうのが日本人にとっての龍なのだが。
 マチカネワニの化石が出土して、ちょうど六十年となる。伝説上の龍へ繫がるロマンも祕めたそのワニは奇しくも本年と同じ甲辰に見つけられ、歴史的な意味も齎した。厳しい始まりとなった今年だが、その発見のようにフクキタルことを麗らかな春の訪れとともにマチカネるものである。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和6年2月12日号)より(但し、仮名は現代仮名遣いに改めた)

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「龍の年にあけまして」——資源活用事業#33

植戸万典(うえとかずのり)です。桃の節句の挨拶は「おめでとう」で良いのでしょうか。

能登半島地震から2か月が経ち、状況も一息ついた頃となりましょう。なので今回は年始に書いたコラムをば。
恒例なので一応書いておくと、寄稿したときは歴史的仮名遣ひでした。一応。

コラム「龍の年にあけまして」

 新年挨拶もしきれぬうちの地震に、被災地にはお見舞いとこれからの平穏を祈りたい。
 地震は鯰が起こすと語られた時代がある。江戸期には、鹿島の神が要石によって大鯰を押さえ込むなどといった趣の錦絵が作られていた。そうした鯰絵は幕末の安政の大地震の際に流行したものだが、地震鯰という観念は豊臣秀吉の伏見築城の頃にはあったようだ。
 鯰絵に先立つ中世日本には、地底に伏した龍が地震を起こすという説も流布していたという(黒田日出男『龍の棲む日本』参照)。それは、江戸初期の「大日本国地震之図」や後期の「ぢしんの弁」等にも、ウロボロスのように自らの尾を咥えて環になった龍っぽい生き物(地震虫)が行基図様の日本の国土を取り巻いている絵地図として見られる。
 もっとも、ポロヴニコヴァ・エレーナ氏の論文によれば、庶民向けの百科事典的暦占書である大雑書に元禄期の頃から同類の絵図が「地底鯰之図」の題で挿入されていること、また「大日本国地震之図」の詞書でもそれは魚だとしていることから、その龍的な生物は関東では未だ鯰のいなかった江戸中期までに想像で描かれた鯰とも思われる。また竹生島縁起では龍が鯰に変じたとされるし、或いは龍のイメージを重ねたものかもしれない。
 今回の北陸の地震では、辰年だからと龍に因果を求めたり、辰の字は「ふるう」の意があるからだと語りたがる者も現れかねない。だが、この地震は龍でも鯰でもなく、地底の流体上昇が一要因に推定されているものだ。陰謀論同様、必要以上に人智を超えたものに現象の説明を頼ることも健全な信仰態度とは云えまい。直接の被災を免れた身としては、時々に応じて災害をどう捉えるかを自ら問い続けてゆくことが肝要なのだろう。
 自然現象は天地の理。地球は人類の暦なぞ忖度しないのだから、元日にも地震は起こり得る。実際、昭和五十九年の三重県南東沖や平成二十四年の鳥島近海での元日の地震では多数が相応の揺れを感じたはずだが、それはどれだけ覚えられていよう。反省しかない。
 近年の災害を通じて再認識されたことは、緊急時になにより優先すべきは人命だということ。その点は神社も一市民と同じであって特別ではない。文化財保全や祭祀の厳修も個人的には重要事だが、それを考えることも事態が一定程度落ち着いてからだ。さらに、人間の力では如何ともしがたいその出来事を飲み込むため、現象を説明するだけの科学の先に超自然的なものへ心の安寧を乞うこともあろうが、それとて災害がまさに起きている最中では命を救う力とはなりがたい。そう、本来なら本稿も一旦息のつけた後に書くべきだった。が、少なからず縁ある当地の新春の惨状には筆を執らずにもおられなんだ。
 鯰絵には地震の禍を福に転ずるさまを描く作もある。ともかく彼の地には「あけましておめでとう」と早く伝えられるようにしたいものだ。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和6年1月15日号)より

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「大一大万大吉」——資源活用事業#32

植戸万典(うえとかずのり)です。今年は「あけましておめでとう」とはなかなか言いづらい新春となりました。

こういうときこそ一致団結が大切だ、ということは言われがちですし、それそのものは否定するつもりもないのですが、こういうときの「絆」だとか「ワンフォーオール、オールフォーワン」だとかにはちょっと眉に唾つけてしまいます。

コラム「大一大万大吉

 かつては奸臣の代名詞とされた石田三成も近年では研究が進み、再評価されて久しい。その一環か、三成の旗印「大一大万大吉」も「一人が万民のために、万民が一人のために尽くせば、天下は太平になる」の意であると解釈され、ラグビーの「ワンフォーオール、オールフォーワン」の精神に通じているともよく云われる。
 石田三成ゆかりの滋賀県の広報までも採るこうした「大一大万大吉」の解釈はしかし、とある経済学者が二十五年前頃に唱え出した私説だ。同説は、道教神道だとか、北斗星信仰=天照大神信仰だとか、石田三成の政治理念が「愛」による「最大多数の最大幸福」だとか、その歴史学の造詣や神道への理解は独創的に過ぎる感もあり、歴史や神道を専攻する身としては俄かに従いがたい。もちろん一般論として、他分野のプロの研究が参考に資することも多いことは大前提として。
 高橋賢一『旗指物』(昭和四十年)では、大一大万大吉紋を「吉はもちろん、大も一も万も瑞祥的な文字」と云い、また江戸後期の『鎌倉武鑑』には石田為久の紋として載る。石田為久とは、治承・寿永の乱征東大将軍木曾義仲を討った武士だ。『平家物語』にも登場し、三成の先祖とされることもある。
 三成が大一大万大吉紋を用い始めた時期は知悉しないが、家の紋に九曜紋などがあったはずの三成が戦場で「大一大万大吉」を使用したのは、その政治思想というより、為久の武勇の誉にあやかろうとしたのではないか。大一大万大吉紋を掲げた関ヶ原の戦いで対峙した家康はすでに関東転封で源氏へ改姓しており、その「源氏」を討った「石田」という物語をメタファーに利用したとも考えられるかもしれない、と留保つきで断っておく方がまだしも歴史学者らしい物云いだろう。
 「ワンフォーオール、オールフォーワン」はラグビーの言葉として有名であるものの、歴史的には生命保険などの相互扶助の制度に関連してしばしば使われてきたものらしい。その出典も、巷では大デュマの『三銃士』とされがちだが、スイスの伝統的なモットーに見ることもできる。諸説あるが、経済学者の村本孜氏の論文によると、古く欧洲で人口に膾炙した成句であり、文献的に特定の淵源は求められないらしい。
 この「諸説ある」という語も、ただ安易な思いつきを並べて有力な説と同列に扱うことではない。同様に確からしいものを比較し、その最終判断は後代の研究者へと託す学術の営みだ。学界も数多の研究者による総力的な営為である。積み重ねられた先行研究という「巨人の肩」の上に立ちながら、その地平の先を他の研究者らと見ようとしている。そう偉そうに語る自分も古代史専攻だから、本稿は中近世史をリスペクトしてのもので、要は「ワンフォーオール、オールフォーワン」であり、つまり自分の研究も皆に助けてもらいたい、というものだ。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和5年11月27日号)より

一応書いておくと、『神社新報』掲載時は歴史的仮名遣ひでした。

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「こだわりの怪」——資源活用事業#31、或いは自分が物書き的にこだわったりこだわらなかったりしている一つ二つ

植戸万典(うえとかずのり)です。この世には不思議なことなど何もないのだよ。

人にはそれぞれこだわりがあるように、逆に不思議とそれぞれ全くこだわらないところも人にはあります。
自分自身もそれなりの年月を神社界に関わってきたなかでの反省もあるのですが、「国家神道」とか「神社神道」とかを今の神社界の人たちも結構印象論で使っているのではないかと見ていて思います。
おおらかと言えばおおらかですよね、自らの信仰の根幹にかかわることなのに。そこをこだわらないのか、と。

ちなみに自分は仮名遣いに関してべつにこだわりはないので、媒体に応じて使いわけています。
神社新報』は歴史的仮名遣ひの新聞なのでそれに準じていますが、こちらでの資源活用では現代仮名遣いに改めています。それこそこだわりでは?

コラム「こだわりの怪」

 この夏も酷暑をどうにか乗り越え、食慾の季節を迎える。増した食慾で美味しいものを求めると、「こだわり」を枕詞にする店舗や商品をそこかしこで目にすることは今や特段珍しくもない。否、それは飲食に限らない。社会はさまざまな人の「こだわり」で溢れているのだ。そしてそうしたことを思うたび、自分はそれを「」で括りたくなってしまう。面倒な性分だなあ、と自覚している。
 「こだわり」とは元来、些細なことに拘泥しているというネガティヴな意味であった。それが近年では、妥協せず細部まで追求しているというポジティヴな使われ方が優勢だ。どんな言葉も意味が転化したり、別の言葉に置き換わってそれが一般化することも当然な言語の世界で、元来の用法に必要以上に固執することこそ「こだわり」かもしれないが、職業柄いつも気になってしまうのだ。
 神社界では「疫禍」という言い回しも近頃定着してきたように思う。試しにWEB版の『神社新報』で検索すると、近年の紙面での使用は、どうも令和二年七月二十日付本欄の拙文「うらやすの国」が最初らしい。自慢に聞こえるかもしれないが、むしろその造語の意を汲んでくれた編輯部の先見性こそ自分は第一に称讚しようというものである。
 当時は「コロナ禍」が流行し、神社界でも通用してはいたが、個人的にそれは避けたい表現だった。COVID-19を「コロナ」と略すことの適否や単純に文字数の多さなど、理由はいろいろある。反面、その語を避けるために早々に思いついてはいた「疫禍」も、実際に書くまでは躊躇があった。この言葉は世に受け入れてもらえるものか、と。
 それでも、現在進行形だった「コロナ」に災禍を限定してしまう座りの悪さや、安易な「コロナ禍」の使用の違和感は無視できない問題意識であった。そう思案していたとき、私淑する小説家のSNSの投稿で「疫禍」が使われているのを確認したことで、ようやく覚悟が決まった。振り返ってみると、これは「瑣末事への固執」だったのか否か。
 その私淑する作家の小説は、書籍の版面が視覚的にコントロールされていることで有名だ。文章が途中でページを跨がずに見開きで完結しており、一段落の行数や最終行の長さなども操作されている。氏曰く、そういった操作は「こだわり」などではなく、可読性や効果を狙った必要なものだそうだ。つまり、それは「どうでも良いこと」でない。
 プロフェッショナルな世界には、そうした外野にとって「こだわり」にしか見えないが必要な部分がある。一方でわが身を顧みて、神社界ではどれだけ信仰や教学の部分にまで「こだわり」を持てているか怪しい。例えば「神社神道」とは何か、「神職」とは何かと問われ、その歴史を通じた本質をどれほどに答えられるものか。或いは斯かる懸念こそが「こだわり」の憑き物なのだろうか。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和5年9月25日号)より

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「海の日に当つて」——資源活用事業#30

植戸万典(うえとかずのり)です。8月11日は山の日です。

海の日があるなら「山の日」も欲しい、でもこれ以上祝日を増やすと経済活動への影響が心配、ならばお盆休みに連動させて直前の8月12日ではどうか、それは日航機墜落事故(1985年)の日なうえに事故現場も山だからいかがなものだろう、だったらさらにその前日の8月11日にしよう——といった経緯で制定されたようです。
正直、由来もなにもあったもんじゃないなと制定されたころは思ったものです。今でもよくわかってはいませんが。でも山の恩恵には感謝します。祝日万歳。

だったら前々から不思議だった「海の日」の由来はどうなんだ、と思って調べたのが、今年の海の日に書いたコラムです。
掲載は例によって『神社新報』なので紙面では歴史的仮名遣ひでしたが、ウェブ上での読みやすさのために現代仮名遣いに直して転載します。ただしタイトルの「当つて」の部分は、オマージュなのでそのままです。

コラム「海の日に当つて」

 七月の第三月曜日は、海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う日だ。文筆家としては、それに応じた話題を提供する日である。べつに海水浴に興じる日でなければ、冒険とイマジネーションの海へ旅立つ日でもない。
 祝日化する前の七月二十日は、昭和十六年から当時の村田逓信相の提唱によって海運・海事への理解促進を図る「海の記念日」だと定められていた。逓信省日本海運報国団編『海の記念日に当つて』によると、明治天皇大巡幸の二回目となる明治九年の東北地方巡幸の帰路、明治丸で恙無く天皇が横浜港に安着された七月二十日を佳き日と卜したのだそうだ。
 もっともこの話、由来としてはなんとなくこじつけっぽいのが以前から不思議だった。なぜ六大巡幸のなかでも二回目で、おまけに帰還日なのか。こういう場合は初乗船の日の方が自然だし、一回目の九州巡幸にも軍艦は使われている。あるいは神武東征出発日でも良いではないか、と。実際、日取りには別の有力候補もあったようだ。どうやらこれは、夏でないと海に出る人が少ないとか、学生にその意義を伝えるためには休みの頃が良い、といった思惑もあったらしい。ちなみに神武天皇の東征は冬十月五日が出発日である。
 『海の記念日に当つて』の主張に従えば、明治天皇が御親ら明治丸に召され、霧深く、波高い航程に就かれたという御垂範により、開国によって国民の内に盛り上がった海への関心が正しく強く育成されたらしい。成程と頷くほかないが、天皇の示範で日本人の外洋への海路が開けたという理窟なのだろう。
 もちろん、開国以前から日本人は船を漕ぐ営みも持っていた。住吉神や金毘羅神などのさまざまな航海の神が各地で信仰され、また今も神札を祀る船舶があり、海洋文化が生活に根付いている。自分が沖縄で漁船に乗せてもらったときも、操舵室には神棚が祀られていた。そうした船舶と同様に、戦前の日本の軍艦には「艦内神社」があった。「神社」と称するが、漁船のものと同様に神棚と捉えて良い。そうした艦内で神を祀る習慣は、今の自衛隊にも受け継がれているようだ。以前、海自関係者に新しい艦艇に祀るのはどの神が良いか相談を受けたことがある。祀る神は、艦名に関わりが深かったり、造船地の著名な神社であったりするそうだ。
 艦内神社は古来の船霊信仰との関係も指摘されるが、基本的には近代の所産であろう。そのような文化を培ってきた艦艇では海の日も、記念日の制定以来満艦飾で祝っている。由来の牽強付会っぽさ自体は一旦横に置くとしても、海の日は今や明治以来の海洋文化を象徴する日となっているのだろう。
 さて、この次の祝日は八月十一日の山の日だ。山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝しなければならない日だが、とくに由来譚は……海の日のようなものすらない。どうしたものやら。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和5年7月17日号)より

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「マスクとはなしづめ」——資源活用事業#29

植戸万典(うえとかずのり)です。生粋の花粉症持ちとして生きてきました。

この疫禍になってから花粉症患者としてちょっと良かったことのひとつが、TPOを問わずマスクを着けていても文句を言われないことです。
以前だったら、花粉が飛散する真っ只中であっても格式ばった場面ではマスクを外すように強いられていたので。

そう言えば、十年くらい前にヴェトナムのハノイホーチミンを旅したときは、現地の多くの人たちがカラフルなマスクを着けてバイクに乗っていました。今ではどうなっているのでしょう。
疫禍もだいぶ落ち着いてきたので、またいろんな国々を見てみたいものです。

ちなみに今回のコラム転用は、本掲載時の歴史的仮名遣ひのまま載せています。理由は後半で。

コラム「マスクとはなしづめ」

 春爛漫たる三月は、古く朝廷では花鎮めの祭りの季節でもあった。神祇令季春条に規定されたそれは、花そのものを鎮める祭りではない。『令義解』等によると、花散る時期に疫神が拡散して流行病を広めるのを 鎮遏 (ちんあつ)するためにおこなはれた。朝廷のものは大神神社狭井神社の神事だが、京都紫野は今宮神社の「夜須礼祭」なども花鎮めの祭礼といふ。祇園祭だの茅の輪だの、世相もあって近年はかうした疫病の歴史や伝承も注目された。
 もっとも花期に飛散するのは疫神だけではない。花粉も飛ぶ。自分はある時期からは、夏は暑くて冬は寒いのと同様に春は花粉症の季節だと諦めることにした。もちろん諦めたところで目は痒いし、くしゃみは出る。疫病もさることながら、現代病患者的にはむしろスギの花を鎮めてもらふ方が切実だ。
 そんな疫病と花粉症の春は四度続いたが、新型コロナウイルス感染症への向き合ひ方も変はらうとしてゐる。思ひ返すと三年前の春から全国の神社は、鎮花祭ならぬ感染症流行鎮静祈願祭をおこなひ、日々の祭典での辞別祝詞で終熄が祈られてきた。さうして迎へた転換期、疫禍への方針は変はるが、終熄宣言が出ることはない。祈願と報賽を対だとするならば、願解きはどうすれば良いだらうか。
 マスクは、良くも悪くもこの三年間の象徴だった。それも政府の方針転換で、すでに今月十三日から、著用は個人の判断に委ねられてをり、歓迎する声も聞こえる。古代では冠を脱いで髻を見せることが恥であったやうに、素顔を曝すことを恥ぢる世の中になることも想像はされたし、一部ではさうした兆しこそ見えたものの、三年の年月はそれが社会的な常識となるほどの期間ではなかったやうだ。
 これからはまた令和元年までの社会に戻るのだらうか。ただ、法令上の分類が変はったところで、その瞬間に現実のウイルスが全くの無害になるわけでもない。コロナウイルスだけが病原体でもないのだ。どんな感染症であっても罹患しないに越したことはないし、死ななくとも他者に辛い思ひをさせることがないやうに対策することは、これからも必要なことだらう。少なくとも、アマビヱの方がマスクより有効だったといふ話は寡聞にして知らない。元来「アマビヱ」なる疫病除けの伝承なぞ無く、近来流行った巷説なのだし。
 マスクにも政策にも賛否ある。だがそれが社会の分断へと至り易い現代は、面倒でも、十分な距離を置いて各々の立場を尊重しつつ建設的に話し続けるしかない。素顔を曝さず話すマスク生活は、さうして話しづめる素地を養ふものだったと肯定的に捉へてみよう。
 ちなみに自分自身の立場としては、個人の判断に委ねられてからもマスクは着け続けてゐるし、当分は外す予定もない。なぜなら、スギ花粉の飛散が終はっても、ヒノキ花粉が続くからだ。のどは痒いし、洟は出る。まだしばらく薬で鎮めてゐなければならない。

(ライター・史学徒)

神社新報』(令和5年3月27日号)より

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「卯年にちなんで猫の話」——資源活用事業#28

植戸万典(うえとかずのり)です。愛猫家です。

2月22日は猫の日と言われます。「222」が「ニャンニャンニャン」だからだと。
鳴き声の語呂合わせなら、「ミーミーミー」で3月33日も猫の日になるのではないかと思うのですが、そんな日は金輪際ありえないのでやっぱり猫の日は2月22日で良いのでしょう。

ちなみに、Wikipedia情報によると各国にも猫の日があるようで、イタリア等では2月17日、ロシアでは3月1日、米国では10月29日、さらに8月8日が「世界猫の日」だったりするそうです。
世界中「やっぱり猫が好き」なのですね。
ja.wikipedia.org

コラム「卯年にちなんで猫の話」

 寒風に襟を掻き合わせ、街に溢れる干支の動物を睨む。ネタ探しだ。この季節、一部のエッセイストや年頭挨拶の代筆者らは干支にちなんだ話に頭を捻っていよう。執筆依頼に対して、今年はこう訊いているに違いない。「ご注文はうさぎですか?」と。
 神社の界隈では虎との関係が少なく、昨年書いた方々の記事ではひじょうに困ったが、他方で兎は話題が豊富なため、それはそれで困ってしまう。因幡の素兎の神話から神使に繋げて、渋谷の丘の大学のマスコットを語るほど素直でもない。困った性分だ。
 卯年の年始は飛び跳ねる兎にちなみ飛躍の年だとしばしば挨拶されるが、考えてみると他の年もおおむね似たような験を担ぐことを云っている。それも年末まで覚えていることは稀だろう。現代における干支は、年賀状を書く頃に意識し、だいたい春先には誰も話題にしなくなるし忘れてゐる存在なのだ。新聞といふ適時性が求められる媒体のエッセイにおいて十二支を話題にするのなら、今くらいしかタイミングがない。
 十二支の話題と云えば、子供の頃にこんな昔話を絵本で読んだ。十二支の動物を決める競走で、猫は鼠に騙されて遅れたから十二支には入っていないのだ、という由来譚だ。
 この説話は日本だけでなく、世界中に似たものがあるらしい。十二支に生き物を当てることはアジアだけでなく東欧にまで見られる風習だが、各国の人は同じように猫の不在を疑問に思ったのであろう。そう考えると、世の猫の愛され具合を思わずにはいられない。皆「やっぱり猫が好き」なのだ。
 もっとも、ここにヴェトナムという伏兵がいる。彼の国などでの卯年は、兎でなく猫が割り当てられている。テト(旧正月)の街はその年の干支の動物モチーフが賑わう国で、今頃は至るところ猫まみれになっていよう。つまり今年は猫の年でもあるのだ。だがそうだとすると、ヴェトナムでは十二支由来譚がどのように語られているのか、愛猫家として気になるところでもある。
 日本で記録に残る著名な愛猫家の一人は、平安時代の宇多帝であろう。天皇による日記『寛平御記』には父の光孝帝から譲り受けた黒猫が細かく描かれ、猫可愛がりされていた様子がよくわかる。にも拘らず天皇は、その猫を大切にするのは先帝に賜ったものだからだと弁明なさる。飼い主も猫のようだ。
 江戸後期からは招き猫の信仰が流行した。史料的には浅草寺の近辺で売られた丸〆猫が最古だが、起源譚は豪徳寺や西方寺などにも伝わる。そうした猫像は、稲荷信仰における伏見人形の狐との類似性も注目されている。
 今号の執筆のお声掛けには兎という指定がなかったので、ここぞとばかりに猫の話題をしてしまった。年末どころか月末まで覚えていてもらえるかわからないが、年初の紙面にせめての彩りを添えられていたら幸いです。

(ライター・史学徒)

神社新報』(令和5年1月16日号)より
(原文の歴史的仮名遣ひは、転載にあたって現代仮名遣いに改めた。)

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