衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

「歴史をかたる本丸」――資源活用事業#14

植戸万典(うえと かずのり)です。新語流行語の賞候補も発表されて、やっぱり今年は新型流行病の関連がほとんどなのは当然だよね、と感じてます。
後世に2020年の歴史を語るなら、良くも悪くもコレ抜きにはできないでしょうから。「日本ではその当時最も長く政権を維持していた安倍晋三が首相を辞任することとなり、また米国でもその年の大統領選はバイデンが当選するまで混乱を極めた」とか書かれるのかな。

以前もこちらの記事で触れましたが、「歴史とは何か」という問いは大学で史学を専攻するとまず通る道です。史学概論などで紹介されるE・H・カーの『歴史とは何か』などは、もはや古典の領域かもしれません。
その問いに対するストレートかつオールマイティーな答えは自分もまだ持てていませんが、虚実のあやふやな情報の錯綜する現代社会だからこそ、歴史学の素養は意外と重要なのではないかと最近とみに思ったりします。過去の事柄を扱っているはずなんですけどね。

今回は、令和2年9月28日付『神社新報』のオピニオンコラム「杜に想ふ」欄へ寄せた「歴史をかたる本丸」です。
毎度のことながら、歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いに改めています。

コラム「歴史をかたる本丸」

 歴史修正主義者との闘いに忙しい。夏は新キャラ獲得にも苦労した。ゲームの話だ。
 今の刀剣ブームを盛り上げるそのオンラインゲームは、擬人化した刀剣たちを率い、時間を遡って歴史改変を目論む「歴史修正主義者」の軍勢などを倒してゆくもの。神社界とも交流深く、だからというわけではないが先頃本紙で始まった連載「刀剣は語る」も楽しみにしている。
 勿論、元来の「歴史修正主義」の語意は別だ。個人的には、そのゲームのリリースより遙か前、初めてその語で他者を中傷する声を耳にしたとき不思議に感じたことを思い出す。史学も研究の進展により旧説は改められる、何故それが誹謗されるのか、と。後にそれは、学問的成果によらず思想のために歴史認識を歪めることへの非難だと知った。
 歴史が過去と今を繫ぐものなら、その認識が歪んでいては今を未来に繫ぐこともできまい。そもそも歴史とは何なのか。中島敦の短篇『文字禍』では、主人公の老博士がこう語る。「歴史とは、昔在った事柄で、且つ粘土板に誌されたものである。……歴史とはな、この粘土板のことじゃ」と。歴史学の対象は広いが、単に過去あっただろうすべての出来事が「歴史」なのではない。
 歴史には歴史叙述という面がある。大衆的にはそれこそを歴史と呼ぶように、史実をどう語るかは史学の柱だ。史家は史料批判により史料の特性を検討し、それを読み解き、そこで得た認識を通じて歴史を叙述してきた。叙述においても歴史の本丸は史料なのだ。
 今年は『日本書紀』奏上千三百年。新史料なぞ稀で解釈論の多い古代史専攻としては、記念の年だからこそ『紀』を史料として拘りたい。例えば神名は基本だろう。刀剣の号も表記や読みに論争は多いが、神も史料毎に複数の名を持ち、読み方もさまざまだ。神社界では「天照大御神」をよく見るが『紀』は「天照大神」だし、大己貴命も「オホナムチ」が耳馴染んでいるが改めて『紀』を見るとわざわざ「於褒婀娜武智(オホアナムチ)」と註記してある。
 もっとも、『紀』の訓詁も時代に応じて変わっている。中世日本紀では神名にも一文字毎に意味を求めようとした。現代にまた新たな神学が生まれるなら、それも歴史の一頁だろう。ただ、その歴史叙述も後世には史料だ。だからこそ、史料を無視し、史料を都合よく曲解するなら、それは歴史を騙ることに他ならない。見たい情報だけ見たいように見ればその認識も叙述も歪むことは、歴史に限った話ではない。
 ちなみに、歴史叙述の先には物語もある。史実に題を採るそうした歴史譚は、大河ドラマ然り、史書に副いつつその隙間でどんな法螺を吹くかという虚実の按排も魅力のひとつだ。そちらの本丸はさしずめ、右手に歴史書、左手に法螺貝、といったところか。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和2年9月28日号)より

「歴史をかたる本丸」のオーディオコメンタリーめいたもの

こんなオチにしていますけど、日光一文字は資源を枯渇させただけで終わりました。
でも太閤左文字は頑張りましたよ。

ちなみに神名ですが、普段の文ではそこまでうるさくは考えません。
史料には則しますが、煩瑣になる場合はその都度どこかで整合性をとります。

余談ながら、「中世日本紀」とは中世に『日本書紀』の註釈書という形で著された史料(だけではないですが)の総称のようなもので、1970年代頃から日本史学界で使われている学術用語です。
中世においては、当時のさまざまな知識や教学によって神話が再解釈されていました。現代的な視点で見れば荒唐無稽であったり牽強附会な印象のものも少なくないのですが、今も近代的な合理主義によって神話を解釈する向きもあるので、中世ばかりが特殊なのではないのでしょう。
もっとも中世日本紀の中には、単にその頃の思想や学問によって書かれたのではなく、政治や社会状況によって説かれたのではないかと思われる節のあるものも見られて、広範囲な視座の必要な分野であったりもします。

このコラムでも「見たい情報だけ見たいように見ればその認識も叙述も歪むことは、歴史に限った話ではない」と書きました通り、あらゆる情報の溢れる時代だからこそ、その渦に飲まれないよう、各々の意識が求められる世の中です。
これは史料読解でも望文生義とならないよう、自戒もこめて、ですが。

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