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研究ノート:「譲位の儀式について―古代の事例を主に―《補篇》」

論文的な調子のテキストがウェブのフォーマットで書くのに向くのかどうか、試験的にnoteにあげました

「譲位の儀式について《補篇》」――資源活用事業#番外|植戸 万典|note

はてなブログにも掲載してみます。
(初出は『神社新報』平成29年9月18日号掲載「譲位の儀式について―古代の事例を主に―《補篇》」)

なおnoteでも注記したとおり、文章はそのままでも、完全な転載とはしていません。
歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いに、漢数字は算用数字に、一部の漢字はひらがなに等々、表記は個別的にいろいろと改めています。
ウェブサイト上での見やすさ読みやすさなどを確認するためでもあるので。

 

 (はじめに)

先般、『神社新報』掲載のS氏*1の論文「譲位の儀式について―古代の事例を主に―」《前篇》・《後篇》(『神社新報』第3363号・第3364号、8月7日・14日。以下「S論文*2」)を拝誦し、古代の譲位の様相を改めて認識し得た。
斯界においても、古代の譲位儀式に関する歴史的事実への理解が概ね共有されたものと拝察する。
しかし一方で、氏が示された「退位」の語釈箇所については論証部分も短く、歴史学の学問的背景を有していない多くの読者に向けては、若干の補足が必要なようにも見受けられた。

神社本庁におかれては7月21日*3、「『天皇の退位等に関する皇室典範特例法』に関する神社本庁の基本的姿勢」を公表して、「退位」ではなく「譲位」の語の使用が適切であるとされた。
斯かる中にあってS論文は、ややもすれば、歴史学を専攻しない者には「“退位”とは“廃位”の際に用いる語である」との誤解を与えかねないようにも思われた。
神社新報』8月14日付の論説「皇位継承儀礼の本義 本庁の基本的姿勢に寄せて」でも、本庁の見解を支持する上において、

律令(儀制令)では「太上天皇。譲位の帝に称する所」と「譲位」の語を用ゐ、S氏も指摘するやうに、「退位」が「廃位」と同義で用ゐられてゐたことからも「譲位」が正しい皇室用語

であると論じられている。

歴史的事実として古来、もっぱら使われていた語は「譲位」(または「禅位」「遜位」など)であり、半面「退位」の用例はほとんど見られないことは明晰である。
神社本庁の基本的姿勢」でも述べられているとおり、「古くは律令に規定されてゐるやうに、「譲位」といふ語が公式かつ歴史的に用ゐられてきた」のであって、これの現行法制上における適否は別としても、少なくとも史実としては往古以来、天皇は「譲位」されてきた。

S論文も淳仁天皇排斥時の事柄にのみ言及しており、通史的に「退位」という用語を論じているのではない。
しかし学術誌でない新聞紙上に掲載された事情をおもんみるに、稀な廃位の際に用いられた例ばかりがひとり歩きして、「譲位」に係る正確な理解の伝播しないことが危惧される。
今般制定された特例法の施行により国政上は「退位」がおこなわれることも併せ考えると、歴史上「退位」が「廃位」と同義で捉えられてきたのか、その当否はより厳格な考証を経て定義されることが求められよう。

学術的要請として、S氏が紙幅の都合で達意し得なかったと愚察する該論稿を補い、参考に供したい。

1、「退位」「廃位」の語について

S論文では「退位」の語に関して、『続日本紀天平宝字8年(764)10月9日条に見られる孝謙太上天皇(原文は「高野天皇」)の宣命に、淳仁天皇の「帝位をば退賜て」とあるのを引き、この訓みが「退賜て」であることを示して、「廃位と同じ意味」と述べられている。
淳仁天皇諡号は明治3年)は史書においても後に「廃帝」とされており、当該宣命の「帝位をば退賜て」が事実上、当代天皇の廃位であったことは衆口の一致するところであろう。

しかしここで留意すべきは、この「退賜て」が記されているのはあくまでも詔(宣命)の中であり、つまりは孝謙太上天皇の命令文の一部ということである。

この詔は恵美押勝藤原仲麻呂)の乱の翌月、孝謙太上天皇側の兵が淳仁天皇の居所である中宮院を包囲し、左兵衛督山村王に宣らせ、天皇親王の位を与えて淡路公に封じたものである。
詔で太上天皇は、淳仁天皇は帝位に相応しくないばかりか藤原仲麻呂と乱を共謀したとして、

(かれ)是以(ここをもちて)帝位(みかどのくらゐ)をば退賜(しりぞけたまひ)親王(みこ)の位(くらゐ)(たまひ)淡路国(あはぢのくに)の公(きみ)と退賜(しりぞけたまふ)

と勅命した。

これが孝謙太上天皇による帝命である以上、ここでの動作主はあくまでも太上天皇であり、それを受けて「退く」のが淳仁天皇であるから、「退」は他動詞として読むほかない。

また、この頃の天皇大権が他の時代と異なる状況にあったことにも注意を要する。

これより先、天平宝字6年(762)6月3日、孝謙太上天皇は出家の意向を示し、併せて

(ただし)政事(まつりごと)は常祀(つねのまつ)り小事(いさけきこと)は今帝(いまのみかど)行給(おこなひたま)へ、国家大事(みかどのだいじ)賞罸(しょうばち)二柄(ふたつのもと)は朕(あれ)(おこなは)

と詔している。

件の淳仁天皇排斥の詔においても、太上天皇は父帝聖武天皇から

天下(あめのした)は朕子(あがこ)伊末之(いまし)に授給(さずけたまふ)(こと)をし云(いは)ば王(おほきみ)を奴(やつこ)と成(なす)とも奴を王と云(いふ)とも汝(いまし)の為(せ)むまにまに仮令(たとひ)(のち)に帝(みかど)と立(たち)て在人(あるひと)い立(たち)の後(のち)に汝のために无礼(いやなく)して不従(したがはず)奈売(なめ)く在(あら)む人をば帝の位(くらゐ)に置(おく)ことは不得(えざれ)。又(また)君臣(きみやつこ)の理(ことわり)に従(したがひ)て貞(ただし)く浄(きよ)き心を以(もち)て助奉侍(たすけつかへまつら)むし帝と在(ある)ことは得(えむ)

と勅があったのを、1、2人の竪子(児童)と共に聞いていたとして、淳仁天皇を退けている。
これらを後世における治天の君と同一視はできないが、孝謙太上天皇は帝位すらその一存で左右できる地位にあると自認しており、現にこの時は成し得た。
排斥の詔の中でも太上天皇は、淳仁天皇を「今帝として侍る人」と表現している。
孝謙太上天皇による該宣命の「退位」に相当する文言はS論文でも「特異な例」とされているが、この時代を見る上においては、帝位を巡る状況からして「特異」であったことにも目を遣る必要があろう。

また、さらに厳密さを求めるのであれば、史書においては始終「廃帝」であり「廃位」の語は見当たらない。
そして、淳仁天皇も即位前紀を除けば、『続日本紀』本文で「廃帝」と記されるのは薨去翌々月の称徳天皇重祚した孝謙太上天皇大嘗祭の記事(天平神護元年〈765〉11月16日条)からであり、配流後は薨ずるまで常に「淡路公」等と表現されている。

2、「退」という表現の用例

正史では、廃帝に限らず廃太子や廃后、免官などとも関連して、「退」や「廃」の字がしばしば用いられている。
いくつかの事例を紹介したい。

同じ『続日本紀』で見れば、天平宝字元年(757)7月の橘奈良麻呂の乱において、首謀者達は「皇太子(大炊王、後の淳仁天皇)を退け」てから「帝(孝謙天皇)を廃」そうと企てた。
日本後紀』では大同5年(810)9月10日、いわゆる「薬子の変」により嵯峨天皇が、藤原薬子の官位を解いて「宮中より退け賜」い、藤原仲成佐渡権守に「退け」た(両者とも後に死去)。
13日には「皇太子(高岳親王)を廃」している。

続日本後紀』には承和9年(842)7月23日の詔で仁明天皇が「皇太子(恒貞親王)の位を停め退け賜」い、藤原愛発を「廃職」して京外追放としたことが見える(承和の変)。

一方で、自発的な辞退の意味で「退」を用いた例もある。
例えば、孝謙太上天皇道鏡を大臣禅師の位に就けようとした時、道鏡は「譲位表」で「退譲を陳」べたことが、『続日本紀天平宝字8年9月28日条所載の勅で知られる。

また、筆者も天皇の「退位」の用例はほとんど見られないと上述したが、これはそうした表現が前近代の歴史資料において皆無であることを指すものではない。
一例を挙げれば、南北朝時代に著された北畠親房による歴史書神皇正統記』にそれを見ることが叶う。

神皇正統記』は平安時代陽成天皇につき、「天下をおさめたまふ事八年にてしりぞけられ」たと記す。
これは、陽成天皇が暴君であったことから太政大臣藤原基経によって廃位されたとの理解が持たれていたことによるものである(『日本三代実録』では、天皇は事前に基経へ譲位の希望を呈していたとされる)。

これのみであれば退位と廃位が同義であるようにも見えるが、前代の清和天皇についても『神皇正統記』は、

天下を治め給ふ事十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給

ったと説いている。
この清和天皇に関する記事の語は自動詞の「退く」で、「太子(後の陽成天皇)にゆづ」った、すなわち「譲位」の意で使われた例である(※)。

こうしたいくつかの事例からも窺われるように、それぞれの言葉は、いずれ各文脈と事実関係とが意味を知る上において重要である。
正史が公式に廃帝と位置づけているのが淳仁天皇のみである以上、その特異な淳仁天皇排斥時の一例をもって「退位」と「廃位」を同義とみなし論ずることには、一層慎重でなければならなかろう。

なお余談であるが、中世でもう一例、歴史の上でも廃帝と評される天皇に、仲恭天皇が挙げられる(配流された上皇を除く)。
承久の乱に縁座した仲恭天皇は、『吾妻鏡』承久3年(1221)7月9日条に「於高陽院皇居*4と書かれている。
天皇は明治3年、弘文天皇淳仁天皇と共に追諡されるまで、九条廃帝後廃帝半帝などと称された。

結びに代えて

本邦の歴史を通じ、先帝崩御に基因しない即位は原則「譲位」や「譲国」等による継承であったことは論を俟たない。
しかし、「退位」の語が「廃位」と同義であると解されていたのかについては、およそ断定し得ないであろう。
S論文の当該箇所も、あくまでも孝謙太上天皇の詔の解説である。
また尊皇の志厚い親房をして「ゆずる」と「しりぞく」を同時に用いていることにも留意したい。

以上、浅学菲才の操觚者ゆえ意を尽し得ず、無用な差し出口に過ぎなかったかと恐懼する。
敬仰する先学の微瑕を論うが如き己が妄動を恥じ、若輩の僭越を御海容願うと共に、諸賢の御批判を乞いたい。
本稿が歴史を重んずる斯界人士の資となれば幸いである。

 

※『小右記』治安3年(1023)12月9日条には「退帝」の記述が見える。これは「延喜」の誤記ともされ、本稿では判断を保留する。

*1:個人名のためブログでは伏せておきます。

*2:同上

*3:平成29年

*4:高陽院皇居に於て位を遜る