衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

「牛の絆」――資源活用事業#16

植戸万典(うえと かずのり)です。日本の干支に猫年はありませんが、毎年2月22日は猫の日。猫派の祭日であります。

とはいえ、猫の日だからと何をすれば良いのかはよく知りません。
もっとも干支だって、実際ところは年始あたりに「〇〇年にちなんで…」とかを序詞にしながら当年の展望を牽強付会ぎみに語られるだけで、1か月もしないうちに皆そんなことなど忘れてしまっているのがほとんどなのですが。

さて、今回活用する資源は、『神社新報』令和3年1月18日号のオピニオン欄「杜に想ふ」に載せたコラム「牛の絆」です。
もはや決まり文句の感もありますが、やはり歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いに変換していますのでご理解を。

コラム「牛の絆」

 丑年だからと、藤子・F・不二雄氏の短篇漫画「ミノタウロスの皿」を改めて読んだ。主人公の宇宙飛行士が事故で不時着した未知の星は、ズン類という牛のような支配種族が人類に似たウスを飼育している社会で、常識や価値観とは何かを問いかけてくる名作だ。
「言葉は通じるのに話が通じない」
 友好的ながら価値観がまるで異なるズン類を相手に奔走する主人公が内心で独りごちるシーンだが、印象的なセリフである。
 現実のさまざまな問題において意見が対立したとき、人はしばしば相手の理解が足りていないのだと云いがちだ。この漫画は、そう考える人間の滑稽さも描き出しているように思う。F先生の「すこしふしぎ(SF)」を教訓的に解釈するのは個人的に好まないけれど、読書をきっかけに内省するのは悪くない。
 価値観の多様性も、近年とみに唱えられるようになった。尤も、現実は理想郷でない。件の主人公が皆になかなか理解されず、また自分もしなかったように、すべての価値観を相対化することは難しい。
 東日本大震災からもうすぐ十年。震災後、絆という言葉が持て囃された。その考え自体はひじょうに道徳的だとは思ったが、それに疑問を差し挟むことを拒むような一部の社会の同調圧力は当時、空恐ろしくもあった。
 絆とか心とか祈りとか感謝とか、そういう抽象的で耳に心地の好い言葉は受け手の理解も早く、作文で生きている身としても便利で使い易いが、だからこそ、そこには危うさも感じる。人口に膾炙して熟れたワードを切り貼りして作った一見無難なテキストを紙面に犇めかせるようなことは避けたいし、たとい使うにせよその背景は心得ていたい。
 絆という言葉は元々、家畜を繋ぎとめる綱を意味した。今は寧ろ、人々の連帯感や強固な紐帯を指すことが専らだ。人と人とが相互に結びつき支え合う姿は、それは美しかろう。しかし牛馬を繋ぎとめる綱は羈絆とも云い、人を束縛して足手まといとなるものを表す。表裏一体なのだ。
 密という言葉も、この疫禍で散々聞いた。ただ、これを流行らせたのは、皮肉にもその密を回避せよという方の号令だった。それは現代社会のさまざまな絆という名のしがらみに囚われ、密な人間関係に心身を困憊させた人には、ある種の福音だったかもしれない。
 本稿を執筆している最中、またも緊急事態宣言が出された。まだ暫くは密を避ける生活も続こう。その上においては、職場でもどこでも“犇”めくことをやめ、
    牛
  牛   牛
これくらいの距離でいたい。そのために、牛を繋ぎとめる絆を解くこともひとつの価値観だろう。禅の十牛図では、牛は本来の自己を表すそうではないか。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和3年1月18日号)より

f:id:gengakuya:20210228152921j:plain
今回は組版を使ったオチありきのようなコラムなので、掲載紙面の方もあわせてご覧ください。

「牛の絆」のオーディオコメンタリーめいたもの

「絆」と同じように、「結束」も「束縛すること。拘束」という意味を持ちます。

kotobank.jp

だから使うべきではない、と主張したいわけではありません。
ただ、どれだけ立派な主義や思想でも、多くの人の胸をうつ美辞麗句でも、一方でそうしたことにより苦しんだり辛い思いをしたりする人があることは、謙虚に受け止めなければならないのだろうと思います。

いやしかし、つくづくF先生のまんがは面白いですね。

※この記事はnoteでも公開しています

note.com