衒学屋さんのブログ

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「うちなーぬゆー」――資源活用事業#24

植戸万典(うえとかずのり)です。いろいろと難しいことも多いけど、なんくるないさ

6月23日は沖縄の慰霊の日。畏き辺りにおかせられては、終戦の日や広島・長崎の原爆忌と同様に忘れてはならない4つの日のひとつとされているとか。

沖縄戦だけでなく、古琉球から近世琉球沖縄県の設置などなど、琉球・沖縄の歴史はなかなか簡単に語り切れるものではありません。
それでもその歴史に敬意を表して、日本史をやっている身としてはそれを少しでも理解していたいと願い、今日は去る5月23日付の『神社新報』に寄稿しましたコラムを載せてみます。
もちろん、歴かなは現かなに改めまして。

コラム「うちなーぬゆー」

 わが家の書斎に並んだ招き猫に四寸ほどの黒い一体がある。京都は三条の檀王法林寺で拝受した品だ。同寺が祀る婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)の使いとされる猫を象った置き物は、招福猫発祥説のひとつにしばしば数えられる。
 檀王法林寺を開いた袋中(たいちゅう)は、江戸時代初めに明を目指して海を渡り、琉球で念仏を布教していた。彼が主夜神を感得したのも、この渡海の頃と伝わる。袋中は琉球で王の帰依を受けて活動し、『琉球神道記』などを著したほか、エイサーの祖と云われることもあり、沖縄と縁深い本土人の一人として知られる。
 その沖縄では今月十五日、本土復帰五十年を迎えた。五十年前の復帰の日、波上宮では畏き辺りより臨時の幣帛料を賜わり奉告祭、翌日からは例祭の波上祭(なんみんさい)を賑やかに斎行している。また今年は、明治の琉球処分の始まりからは百五十年、米軍施政権下の琉球政府が置かれてからは七十年ともなる。唐の世(とうぬゆー)から大和(やまとぅ)世、米国(アメリ)世などと経て、再び本土と共に歩む万国津梁の沖縄(うちなー)の歴史を感じよう。
 琉日間交流は中世以来、存外活潑だった。海上交易のなかで那覇には多くの倭人が居留し、神道や仏教も外来宗教として伝えられていた。王府の庇護を受けた琉球八社などは、支配者層から特別な崇敬を寄せられている。近代に神社として鳥居が建てられた御嶽(うたき)も、地域住民に大切にされてきた。日本本土とは異なる信仰文化が強調されがちな沖縄だが、決してそれで語り切れるものでもない。
 さらに、平安期の武将源為朝流刑地から琉球に渡り、子の舜天が初代琉球王に即いたと琉球最初の正史などには記される。それは薩摩の琉球侵攻を正当化する方便ともされるが、『琉球神道記』などにも確認される逸話で、室町時代には京都五山の禅僧らを介して琉日間で知られた伝説らしい。こうした日琉同祖論が事実か否かは別として、琉球と本土の繫がりが浅くないことは確かだろう。
 一方で、そうした歴史を無邪気に喧伝することが完全に良いものかとの惑いもある。
 源義経蝦夷に逃れてアイヌの神となり、或いは大陸で清朝の始祖やチンギス・カンになったという伝説がある。判官贔屓が生んだ俗説だが、薩摩の琉球支配と為朝伝説の関係同様、時の為政者の対蝦夷、対大陸政策との関係も無視できない。日韓併合が進められた近代には歴史家が日鮮同祖論を唱えていた。現下の露国によるウクライナ侵攻はキエフ・ルーシを両国共通の祖と考える彼の大統領の歴史観が行動背景にあると指摘されたことと重ねてしまう。日ユ同祖論くらいのオカルトを娯楽で愉しむ程度なら可愛いものだが。
 史実や伝承を媒介に文化間の交誼が深まり一体感が生まれるのは史家の本望だが、その表裏関係として、歴史観を安易に政治と結びつける危うさには自覚的でありたいと思う。
 主夜神は闇夜で難に遭う人の光となる神。混迷の時勢、その加護を黒い猫像の向こうに願って已まない。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年5月23日号)より

「うちなーぬゆー」のオーディオコメンタリーめいたもの

京都の「だんのうさん」こと檀王法林寺の猫像は、寺社系招き猫頒布の古い例と言われています。
昭和のはじめ頃に書かれた史料によると、江戸時代にはだんのうさんの右手をあげた黒猫像を民間で真似ることが規制されていたとされます。

招き猫の発祥は諸説ありますが、史料的に確実にわかる範囲では、浅草寺境内で今戸焼の招き猫――いわゆる「丸〆猫」が売られていたことが浮世絵などに描かれています。
丸〆猫は現代の人形職人によって復刻され、年末の浅草寺での羽子板市に出ています。初日の朝には売り切れてしまうということで、私も頑張って並びました。

招き猫の手を挙げる姿も色々言われていますが、仏寺との関係を考えると施無畏印のようにも見えてきます。仏の眷属の猫が主人の姿を真似ているのかな、と思えば猫好きにはますます可愛く見えるものです。ただ檀王法林寺の主夜神の印相は合掌なので、多分無関係かと。
もっとも、京極夏彦先生は『百器徒然袋――風』の「五徳猫」で、右手を挙げる主夜神の図像があることを指摘して檀王法林寺の猫と関連づけておられるので、可能性はゼロとは言えませんが。

ちなみに寄稿したコラムでは省きましたが、日琉同祖論はちょっと複雑な構造でして。と言うのも、これは沖縄の歴史家・知識人の方がよく論じているんです。伊波普猷とか東恩納寛惇とか。単に侵略の文脈だけで説明していては正鵠を射れないものだと思われます。琉球最初の正史『中山世鑑』を纏めた羽地朝秀(向象賢)の言う為朝伝説とか同祖論とかも、薩摩に強制されたと単純に考えてしまうと見誤るもので、羽地の日琉同祖論は王府の財政再建に関わる諫言なだけだというのが現在の学説とされます。琉球を単なる弱者に位置付けるだけでなく、もう少し多角的な見方が必要なのだろうな、というのが今のところの実感です。
ただ個人的には、財政再建の諫言とする説は納得ながら、琉球の諸々は全て日本からやってきたのだという主張が諫言の一部として通じると考えられたのであれば、やはり為朝伝説は首里王府で眉唾モノとは見られてなかったということなのではないかなぁ、とも思います。

琉球の為朝伝説とか義経チンギス・カンになった話とかのアレコレは、高井忍先生の歴史ミステリー『蜃気楼の王国』なんかも面白いですよ。
www.kobunsha.com

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