衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

「ビールに関する一考察」――資源活用事業#21

植戸万典(うえと かずのり)です。またビアバーには行きづらい世相になってきて悲しみを覚えています。

ビール党です。日本酒も焼酎も洋酒もいける口ですが。
とくに所謂クラフトビール派でして、個人的には、最近は一時期ほどの持て囃されではないかもですけれどもヘイジーIPAとかが好物です。ただこう書くと、いやセゾンも良いしヴァイツェンも捨て難いしもちろんスタウトやポーターも美味しいしたまにはバーレーワインも飲みたくなってくるし……困ってしまいます。
ビール・クズです。

以下のコラムは、令和3年10月18日付の『神社新報』(「杜に想ふ」欄)に掲載されました趣味全開の「ビールに関する一考察」の再掲です。
歴史的仮名遣ひを現代仮名遣いに直しているのは敢えてですので、正仮名遣ひ派の方には悪しからず。

コラム「ビールに関する一考察」

 ビールが美味い季節だ。否、訂正します。蒸し暑い日に飲み干す金色のピルスナーも、寒い夜にまったり味わう黒ビールも、大量にホップを使うIPAの苦味も、小麦ビールのフルーティーな爽やかさも、どれも美味い。要は、ビールはいつも美味い。
 十月は日本酒の月と聞くが、ミュンヘンに由来のビールの祭典オクトーバーフェストで賑わうべき季節でもある。とくにこの十月は、各地で酒類の提供が再開され、酒徒にとって例年に増して喜ばしい月となった。めっきり足の遠退いている顔馴染みのビアバーにも、感染対策しつつぼちぼちと立ち寄りたい。
 以前は地酒ならぬ「地ビール」と呼ばれたクラフトビールもこの十年で一般化し、また地域振興にも使われて、巷では「とりあえずビール」の様相だ。一部には社寺と連携したものもある。出来栄えの方はまぁさまざまにせよ、裾野の広がる分野はその山の頂も高くなり、多くの稔りを齎そう。
 ビールに限らず、スポーツ、芸術、読書、食慾と、秋は何かにつけて好い時季であり、豊かな稔りの季節だ。なかでも米の稔りは、神話の時代から収穫の象徴だった。けれども今のような飽食の時代は、その価値も等閑視されがちかもしれない。
 学界では、いつからか博士号を「足の裏の米粒」と云っている。その心は、取らないと気持ち悪いけど取っても食えない。
 末は博士か大臣か、と子の将来を期待したのも昔の話。国による高等教育施策もあり、高学歴者が増えてアカデミアの裾野も広がる現代は、その一方で立場の不安定な研究員を量産することとなった。分野によって状況は異なるが、学位を得ても研究職は狭き門で、たとい就けても薄給且つ任期制では、研究の長期的展望も自身の人生設計も見通せまい。さりとて心機一転して企業就職するにせよ、なまじ高い学歴が目立って敬遠されることもしばしばだ。よほどの才能と運と覚悟がない限り、実家が太いか神経が太いかしなければ博士課程進学という決断は難しい、と院生の頃に思ったものである。そんな状況に実感の伴う諧謔が「足の裏の米粒」なのだ。
 祭りで神前に供される米には農家の思いが籠もっているように、博士号という米粒にも本来ならば徒弟的に鍛えられた高度な技能が宿る。その高度な技能を支えている核心は、クラフトビールの「クラフト」にも託された職人の矜持に近いものがあるのではないか。
 学問の秋は、そうした職人の入り口である大学院を志した学生が進学を決めている時期でもあろう。その職人への道は苦労も多いが、選んだ道中は少なくともひたすら学問に耽溺叶う代え難い時であることを、先達としては保証したい。そして何より論文を書き上げて飲むビールがまた格別なのだと伝えよう。
 本稿の結論を纏めるなら、やはりビールはいつも美味い、ということである。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和3年10月18日号)より

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自分が物書き的にこだわったりこだわらなかったりしている一つ二つ(その2)

植戸万典(うえと かずのり)です。無駄を愛する人間です。
正確に云えば、ムダな無駄は嫌いだけどムダじゃない無駄が好き。

それはたぶん、「無駄」よりも「のりしろ」とか「余白」とか云った方が良い類のものなのだろう。

文章は紙面いっぱいに字を埋め尽くした方が情報量という意味での効率は良いけど、紙の上下左右や行間文字間に適度な余白がなければ読みづらい。

教科書を開けば、余白のそこはちょっとした手遊びの落書きスペースになったりもする。

そういった実利がなかったとしても、余白がちょうどいい具合にデザインされた紙面はそれだけで美しく愛おしい。

そんな意味での無駄を、自分は愛している。

自分の些細なこだわりが、その手の無駄になっているのかはわからない。
ただ、なんならまったくの無駄に終わってしまうようなことほどこだわって書いてしまう癖は、なかなかやめられない。「これは無駄だよなぁ」と思いながら、それでもその無駄の方を愛してしまうのだ。
まぁ、そういうふうにこだわればこだわるほど、益々そこに新しいこだわりが積み重なって自らを縛ることになるのだけど。

例えば、下の紙面もそんな無駄なこだわりで構成されている。

https://assets.st-note.com/img/1638600900016-V7Tam9RGk8.jpg

(『神社新報』令和3年8月23日号「雑草と校正」より)


しばしば寄稿させていただいている『神社新報』のこの欄は、紙面の組み方があらかじめ決まっている。
2段組で、1行当たり20文字、左上には8行分程度のシリーズロゴ。
そんなふうに組版のルールがわかっているので、最近の自分はそれに合わせて原稿を書くこととしている。
すると何が良いのか。

作文の段階で、紙面になったときの読者の読みやすさを考えて書くことができる。

その読みやすさのひとつが、上の画像のように、文章が行をまたぐときには単語が途中で切れて次の行になることが起きないようにすることだ。
行末から次の行頭まで目線の移動があるとき、単語が分断されていない方がストレスが少ない。だからそうする。書き手が組版をコントロールできないなら諦めるけど、できるなら読みやすい方が読者も嬉しかろう、という理屈だ。
そのため自分は、単語を言い換えたり句読点を工夫したりして、改行によって単語が切り離されてしまわないようこだわっている。無駄なこだわりだと理解しつつ。

さらに、2段組であれば、段が変わるときにも一段落が分割されていない方がより読みやすい。
上の左端から下の右端に目線移動があるので、そのタイミングで段落替えがあった方がリーダビリティに繋がるのではないかと思っている。
書籍だったら文章の途中での改ページをしない、とかいう理屈と同じだ。

ただ、こちらが望む読まれ方によっては、あえてそれを外すときもある。

https://assets.st-note.com/img/1638600989663-WM7p3gwLUT.jpg

(『神社新報』令和3年6月21日号「非一般の神社関係者」より)


上の画像のコラムでは、上段最後の部分で「“非一般男性”と結ばれたと云い得る俳優は…」などと読者に考えさせる構造の文章なので、その答えの部分がすぐ横の行にあっては自然と視界に入ってしまい、ただでさえナンセンスなのにさらに面白みが半減してしまう。
だから、「グレース・ケリーだろう。」という結びの部分だけを下段にして、問いと答えの文章を遠ざけた。

もっとも、こういった操作もウェブ配信になれば、端末やらブラウザやらの閲覧環境の問題でまったく無駄になってしまうのだけれども。

ただ、そんな無駄を自分は今後も繰り返していくはずだ。
無駄を愛しているので。
この投稿もそんな無駄の一環なのだろう。

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「雑草と校正」――資源活用事業#20

暑さ寒さも彼岸まで、植戸万典(うえと かずのり)です。
裏を返せばお彼岸まではなんだかんだで暑かったり寒かったりするぞという諺のとおり、今年の残暑もきっちり秋分過ぎまで居座ってくれました。

この資源活用企画もなんだかんだで20回です。いつまで続くか自分もわかりません。わからないことだらけです。
とりあえず20回目の今回アップするのは、『神社新報』令和3年8月23日号の「杜に想ふ」欄に寄せたコラム「雑草と校正」。余計なお世話だったかもしれませんが、紙面掲載のときの歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いに修正させていただいてございます。

コラム「雑草と校正」

 庭の雑草が烈日に青々と茂っている。除草せねばと思いながら、ぎらぎら降り注ぐ夏の日を前にして、幾つもの校正に追われていることを言い訳にサボっていた。秋になれば、今度は落ち葉を掃かねばならない。
 中国宋代の著に、書を校するは塵を掃うが如しとある。また大正・昭和に校正の神様と呼ばれた神代種亮は、号を「帚葉」とした。どちらも書物の校正が際限ないことを、塵や落ち葉を掃くさまに譬えたものだ。繰り返し校正刷りに目を通しても、刊行されたものを手にすると意外な所に誤りを見つけるという経験は、確かに一度や二度ではない。
 校正作業とは、誰かの、或いは過去の己の尻拭いだ。世に出る前に誤りを正せられれば重畳だが、間違ったまま今も世間に広まっているものも多い。そう考えると、億劫になることもある校正も誤りを正せる機会なのだとポジティヴにも思えるし、校正者の的を得た指摘を読むのも嬉しくなる。
 そんな校正漬けの夏も、気付けば国際的なスポーツ大会は各人さまざまな想いを抱いたまま閉幕を迎え、舞台は障碍者による大会に移ろうとしている。非障碍者の大会と並行(パラレル)で開催するそれは、「多様性と調和」の錦旗に翻弄される現代日本に何を齎そう。
 神道の歴史上では、障碍者の扱いはさほど表に出てこない。もちろん、福祉的な精神の跡も見えはする。だが概観すれば、差別心が皆無であったと無邪気に論じられるほど単純でもない。垂仁天皇記には、言語障碍を持つ皇子が占いによって出雲大神を拝みに旅立つ際、足や目の障碍者に遭うだろう道を避け、そうでない道を吉として選んだと記される。常に障碍者全般を忌避していたと示しているわけではないが、一時的な吉凶判断であれ、そうした占いで不吉と判ずることに違和感の無い信仰文化だったことは窺えよう。
 こうした歴史は散見される。しかし神道に限らず、近現代を通して社会的弱者への目も変わった。無論、誤った考えや表現のあった往時を消し去れはしないし、世の差別が尽く解消しているとも云わない。誰も傷つかない社会とは、果てのない理想だろう。それでも少しずつ世界は“校正”されている。
 だからこそ、そうした世の中にあって願うのは、校正の重要性と同等に、正された末に今あるそれまでも過去の間違いのために排斥されないことだ。校正には不変の基準なんて無いし、過たない者など存在しないことを、史学やら出版やらに関わっている身としては痛感する。価値観も日々流転していることを考えれば、「持続可能な発展」の御旗を前に「神道は寛容だから」と嘯いても白々しい。
 雑草という名の草は無いとは、昭和天皇の有名な逸話だ。多様性を尊重する社会なら、どんな雑草でも、まずはそのひとつひとつを愛したい。別にこれは、庭掃除なぞサボろうという意図では決してない。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和3年8月23日号)より

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自分が物書き的にこだわったりこだわらなかったりしている一つ二つ

植戸万典(うえと かずのり)は面倒くさい人間です。

こだわりがあると言えば聞こえは良いかもしれないけど、そもそも「こだわる」って言葉は些末なことに拘泥している執着しているってマイナスな評価が元の意味なのでぜんぜん聞こえは良くなってないし、こういうこだわりがすでに面倒くさい。

ただ、一般人にはどうでもいいことに燃えている人はその火が内燃している限りなら見ていて面白かったりもするので、自分も他人から理解されないこだわりを小出しにしてみたいと思う。
世間にとっては無意味なことを世の中に増やすのは、それはそれで豊かさのような気もするし。


https://assets.st-note.com/production/uploads/images/60161007/picture_pc_700f177875a62a7faf6306aed28fb6a5.jpeg?width=800

(『神社新報』令和3年4月19日号「無税・公益・楽園」より)

例えば上の画像の拙筆にも、自分のこだわりの跡が残っている。

本文の5行目末「伊語や仏語」とある箇所、執筆途中までは「フランス語やイタリア語」だった。
略語にしたのは文字数が増えたから。このコラム欄は本文1100〜1200字相当という縛りがあるので、こういう細かい節約でいつも字数を調整している。

こだわったのは略語にしたときの順番だ。元は「フランス語やイタリア語」だったものを、略語では「伊語や仏語」とあえて逆にした。これは、少しでも読者の混乱を避けようとしてのことだった。

「仏語」にはフランス語という意味以外に、「ぶつご」と読んで仏の教えや仏教に関する言葉という意味がある。
まあ文脈的に仏教用語の意味で「仏語」と書いているのではないことなどわかるだろうなとは思ったものの、一瞬でも混乱させて読んでいる流れを阻害してしまうのは宜しくないな、と思った。

そこで、先に「伊語」を出すことにより「これは外国語の略語なんですよ」という意図をそれとなく伝えて無意識に「フランス語」の意味で読んでもらおうと考え、上の紙面のように書いたのだ。

ちなみに、スペイン語が例示の候補だったタイミングもあったけど、略語にすると「西語」になって仏語以上にわかりにくくなるのでやめた。

こうした益体もないこだわりが良いのか悪いのかはわからないながら、そんなことを日々考えながら自分は作文している。
我ながら面倒くさいなとは思うけど、それなりに楽しかったりもするものですよ。

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「非一般の神社関係者」――資源活用事業#19

植戸万典(うえと かずのり)です。6月はいろいろな締切に追われていました。
締切はクリエイターを追い詰めてくる敵ですが、締切がなければクリエイターは作品を完成させられないので、これからも彼奴とは仲良くやっていきたいと思います。

五輪連休、皆様はいかがお過ごしですか?
我々一般人はモニターの向こうに彼らの悲喜こもごもを見ているだけですが、現に五輪に関わっている方々にとっては、1年前から、直前から、もう少し先に至るまで、気の休まらない日々のことと拝察します。
そうしたなかで思うのは、「関係者以外立入禁止」で開幕を迎えたTOKYO2020において、果たしてその「関係者」には開催国の国民が含まれるのか、ということ。

そんなこともアレコレ考えた今回更新するのは、『神社新報』令和3年6月21日号「杜に想ふ」に寄せたコラム「非一般の神社関係者」です。
ここだけの話ですが、掲載時の歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いにあらためています。

コラム「非一般の神社関係者」

 異国の神の加護があるとかで、六月は婚礼の季節と云われる。もっとも、実際の挙式は秋の方が多いらしい。近年はまた祝言宜しく人前式も人気なようだが、遡れば平安時代、貴公子は姫の家に通って三日の夜に三日夜(みかよ)の餅を食べ、露顕(ところあらわし)の宴が催されて成婚を披露していた。神前元服も後代の様式であるように、古代社会一般の婚儀は神に対して誓いを立てる類でなく、専ら当該人の属する社会の中で必要とされたものだった。
 存外それは今も同じかもしれない。庶民の場合は親族や友人知人、職場の同僚に告げるくらいだが、国民的に知られる人ともなれば結婚するにもマスメディアを介して世に披露せねばならない。すると世間は○○ロスだと騒いだり、彼らの縁者でも知り合いでもないのに祝福したり貶したりと忙しくなる。現実はなかなかどうして、婚姻は両性の合意のみに基づくとはゆかないものだ。
 著名人の結婚相手はしばしば「一般男性/女性」と報道される。便利だが改めて考えると不思議な言い回しだ。お相手が「非一般」のことがあるのだろうか。芸能人は歌舞音曲その他に秀でた才能で大衆を沸かすにせよ、特殊な身分ではない。その意味で紛う方なく“非一般男性”と結ばれたと云い得る俳優はグレース・ケリーだろう。
 芸能人以外を「一般」と表すのは、芸能界の視点に立つからだ。ある属性を持った特定集団の立場から見て、その枠外にいる大多数の人が「一般」なので、視点が変わればその対象も変わる。神社界も、神社関係者以外をよく「一般」と呼んでいるが、もちろん斯界が特権階級なわけではない。
 そう云えば斯界が好むこの「神社関係者」という表現も、よくよく思案すると妙な響きに感じるのは気にし過ぎか。神職氏子崇敬者云々では煩瑣だからであろうが、では「神社関係者」とは誰なのか。
 「関係者」も“関係する者”以上の情報を明確にはせず、場に応じて対象を変え、故にそのままでは英語などにも翻訳しづらい表現である。具体的ではないから、芸能関係者や医療関係者などと云うときは概ね他称的か、敢えて曖昧にしたいときだ。一方で、斯界は「全国神社関係者大会」などと自称的。理念としては神社に関与する者の立場に際限など無いのだから他に表しようもないのはわかるが、これほどにも曖昧な表現が大手を振って使われていると、世間が思うニュアンスとの微妙な食い違いに可笑しみも覚える。
 「斯界」も“この業界”くらいの主観的な意味が本来だが、日常語では耳慣れない故か神社界隈では“神社界”を指すときの用語と化しつつある。さまざまな国民的問題にも公を自負して取り組む神社界は主客の境も曖昧なのかと、これはあまり一般的ではない神社関係者としての単なる小感。平素本欄に載るオピニオンとは似て非なるものだ。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和3年6月21日号)より

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「無税・公益・楽園」――資源活用事業#18

植戸万典(うえと かずのり)です。皆既月蝕は見られましたか?

今回は後半が長いのでアバンは省略。
まずはお約束事として、『神社新報』令和3年4月19日号のオピニオン欄「杜に想ふ」に寄稿したコラムを資源活用します。なんと!掲載紙面での仮名遣いは歴史的仮名遣ひでした。

コラム「無税・公益・楽園」

 租税回避地タックス・ヘイヴンと云う。「税金天国」だと誤解されやすいが、天国を指す「heaven(ヘヴン)」ではなく「haven(ヘイヴン)」なので、そのまま「税の避難所」の意味だ。もっとも、伊語や仏語などでは「税の楽園」と表現するらしいから、あながち的外れとも云えまい。徴税という公権力の支配から自由になるなら、仁德帝の故事を引くまでもなく庶民にとっては天国であり楽園でありエデンの園だろう。
 世の中には統治権力の及び難い「聖域」が存在する。日本も古くは山や港、市場など、支配の及びきらない境界が遍在していた。社寺もそのひとつだ。宗教的権威を背景に徴税権や警察権の干渉を拒む自治領域となったそこは、史学で「アジール」と呼ばれる。
 アジールは世俗の権力から独立した社会的な避難所であり、古今東西で見られた。日本でも、その山門を潜れば罪人もそれ以上の追及を逃れた。鎌倉の東慶寺のように駆け込めば嫌な夫と離縁できる縁切寺もあった。網野善彦氏の『無縁・公界・楽』で有名となった概念だが、すでに戦前の平泉澄氏が『中世に於ける社寺と社会との関係』でその存在を指摘している。近年もさまざまな論争があり、若手研究者の業績も注目される。
 そうした異界は、特権を天与のものとして享受する楽園だったのだろうか。否、むしろ対立する統治権力の容認によって成り立ち、逃避者も世間との縁を絶って苦と向き合うこととなる。そのため、全国的な統治の力が衰微した中世には有効だったが、近世以降は次第に否定され、避難所としての機能は共同体そのものの内部に取り込まれてゆく。
 現代でアジール的に扱われる空間は大使館などに限られる。ただ広く解釈すれば、社寺の宗教活動には徴税が及ばないという点に不輸の面影を感じられるかもしれない。
 宗教行為が無税なのは、信仰に基づく非営利の活動だからであり、畢竟それが世俗を超える公益だからだろう。例外的に免除を容認するその理路はアジールも思わす。問題は、社寺の活動を社会が公益と認めるか。
 貨幣経済が主流となって神仏への奉納も物から金銭になったように、社会の変化に社寺の側も合わせてゆくことは大切だ。一方で、社寺へ納める金員を寄進でなく神符守札や神事の対価と考え、彩り豊かな授与品を参道の土産物の延長と見る向きもある。そういう「参拝客」にとって、社寺の活動は私企業の営利活動と何が違おう。
 アジールがあくまでも統治上の譲歩で存続し、そして統治の中で否定されて消滅したように、現代に社寺側がどう強弁しても喜捨する側――すなわち国民全体の意識が変われば公益に基づくという特権も理由は無くなる。
 世俗に染まり過ぎないことも宗教の意義なのだろう。聖書では、禁断の果実を口にしたことでアダムとイヴは楽園を失っている。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和3年4月19日号)より

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祭とは――神事と芸能と直会と

惜春のみぎり、植戸万典(うえと かずのり)です。月イチ更新が定番になってきました。

3度目の緊急事態宣言の発出ですね。
いや、まん延防止等重点措置だの、県独自の宣言だの、あるいは企業や組織ごとの対応だのを含めれば、我々はもうどれだけの命令とも要請ともつかない同じようなアナウンスを聞いてきたことやら。

神社界隈でも、似たような話題が繰り返し耳目に届いてきます。
疫病といえば――と、昨年来どれほど崇神天皇紀の大物主大神の説話が見聞きされたことか。
変わらない祈りのために、とも言われはしますが、それでも一崇敬者としての人々の「祈り」の主眼はこの疫禍において随分変わってしまったように思います。

こうした状況に対する「馴れ」と「飽き」とに満たされた今の世間を眺めると、1年前は良くも悪くもハイな状態――ある種の「お祭り」状態だったのだなぁと懐かしくすら感じます。
リモート飲みを今でもやっている人はどれくらいなのでしょう。

一方で本当の「お祭り」は、例祭の神輿渡御や賑わいとしての神賑行事などに関し、去年に続けて見送る判断をした神社も多いようです。社殿で神事だけおこない、辛うじて区域を祭神が巡る神幸はできたとしても、祭囃子も獅子舞も、お神酒の振る舞いも取り止める、という。
こんな世相です。それも致し方ないことだと皆理解できましょう。その半面で思い起こすのは、お祭りとは神事だけのことではないと感じた、まだ今のような世の中になるとは予想だにしていなかった頃のことです。

以前、浅草に店を構える御神輿・太皷司「宮本卯之助商店」の7代目宮本卯之助氏に、神社広報誌のためインタヴューさせていただきました。平成も残すところあと一年という時のことです。
三社祭に命をかけているような浅草の町で、その祭に欠かすことのできない神輿と太鼓を担っている老舗のご当主です。誰よりもお祭りとともに生きてきた方。そうした卯之助氏に「祭」の意義を伺うと、こんな答えをもらいました。

「例祭でいえば、神事で気持ちが引き締まった後、笛や太鼓で囃(はや)して氏子を高揚させていく芸能があると思うんですね。それから直会(なおらい)。神事だけで終わらない、かといって芸能だけでもない、神事・芸能・直会の3つが一体となった形がきちっと毎年繰り返されている。繰り返すことで、神様の教えを庶民に伝えているのだと思います」
神道には『古事記』や『日本書紀』といった神典はあるけれど、聖典はないわけですよね。日本ではお祭りの中でその聖典みたいなものが再現されて、庶民の心に根付いているのかと。大事なものがお祭りの中には込められていて、だから1年に1回、神事と楽しみを通してそれが庶民の心に伝えられて、残っていくんじゃないかなと思うんです」*1

慧眼だと思い、インタヴュー記事では締めの部分に使わせていただきました。

話を伺ったのは平時でのこと。浅草という町そのものも、神社を中心にさまざまな新しい変化のきざしが見られた頃でもありました。
しかしあれから数年が経ち、疫禍対策として神事のみが斎行される・されたというニュースを日本各地から聞くたび、このインタヴューを思い出し、お祭りの意義を考えてしまうのです。

芸能と直会が揃わなくなった「祭」は、あとどれくらい続いていくのだろうか。

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*1:神社広報『まほろば』第56号(平成30年4月1日)9頁「日本が誇る一級品 伝統工芸の技と心」