衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

「こだわりの怪」——資源活用事業#31、或いは自分が物書き的にこだわったりこだわらなかったりしている一つ二つ

植戸万典(うえとかずのり)です。この世には不思議なことなど何もないのだよ。

人にはそれぞれこだわりがあるように、逆に不思議とそれぞれ全くこだわらないところも人にはあります。
自分自身もそれなりの年月を神社界に関わってきたなかでの反省もあるのですが、「国家神道」とか「神社神道」とかを今の神社界の人たちも結構印象論で使っているのではないかと見ていて思います。
おおらかと言えばおおらかですよね、自らの信仰の根幹にかかわることなのに。そこをこだわらないのか、と。

ちなみに自分は仮名遣いに関してべつにこだわりはないので、媒体に応じて使いわけています。
神社新報』は歴史的仮名遣ひの新聞なのでそれに準じていますが、こちらでの資源活用では現代仮名遣いに改めています。それこそこだわりでは?

コラム「こだわりの怪」

 この夏も酷暑をどうにか乗り越え、食慾の季節を迎える。増した食慾で美味しいものを求めると、「こだわり」を枕詞にする店舗や商品をそこかしこで目にすることは今や特段珍しくもない。否、それは飲食に限らない。社会はさまざまな人の「こだわり」で溢れているのだ。そしてそうしたことを思うたび、自分はそれを「」で括りたくなってしまう。面倒な性分だなあ、と自覚している。
 「こだわり」とは元来、些細なことに拘泥しているというネガティヴな意味であった。それが近年では、妥協せず細部まで追求しているというポジティヴな使われ方が優勢だ。どんな言葉も意味が転化したり、別の言葉に置き換わってそれが一般化することも当然な言語の世界で、元来の用法に必要以上に固執することこそ「こだわり」かもしれないが、職業柄いつも気になってしまうのだ。
 神社界では「疫禍」という言い回しも近頃定着してきたように思う。試しにWEB版の『神社新報』で検索すると、近年の紙面での使用は、どうも令和二年七月二十日付本欄の拙文「うらやすの国」が最初らしい。自慢に聞こえるかもしれないが、むしろその造語の意を汲んでくれた編輯部の先見性こそ自分は第一に称讚しようというものである。
 当時は「コロナ禍」が流行し、神社界でも通用してはいたが、個人的にそれは避けたい表現だった。COVID-19を「コロナ」と略すことの適否や単純に文字数の多さなど、理由はいろいろある。反面、その語を避けるために早々に思いついてはいた「疫禍」も、実際に書くまでは躊躇があった。この言葉は世に受け入れてもらえるものか、と。
 それでも、現在進行形だった「コロナ」に災禍を限定してしまう座りの悪さや、安易な「コロナ禍」の使用の違和感は無視できない問題意識であった。そう思案していたとき、私淑する小説家のSNSの投稿で「疫禍」が使われているのを確認したことで、ようやく覚悟が決まった。振り返ってみると、これは「瑣末事への固執」だったのか否か。
 その私淑する作家の小説は、書籍の版面が視覚的にコントロールされていることで有名だ。文章が途中でページを跨がずに見開きで完結しており、一段落の行数や最終行の長さなども操作されている。氏曰く、そういった操作は「こだわり」などではなく、可読性や効果を狙った必要なものだそうだ。つまり、それは「どうでも良いこと」でない。
 プロフェッショナルな世界には、そうした外野にとって「こだわり」にしか見えないが必要な部分がある。一方でわが身を顧みて、神社界ではどれだけ信仰や教学の部分にまで「こだわり」を持てているか怪しい。例えば「神社神道」とは何か、「神職」とは何かと問われ、その歴史を通じた本質をどれほどに答えられるものか。或いは斯かる懸念こそが「こだわり」の憑き物なのだろうか。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和5年9月25日号)より

「こだわりの怪」のオーディオコメンタリーめいたもの

文中の「私淑する小説家」とはもちろん、みんな大好きな京極夏彦先生。

このコラムは、京極先生の「(文章の)一段落の行数や最終行の長さなども操作」されているのを自分なりに実践してみたものです。
ただし、先生は、行末の位置が揃わなくなるから最終行以外の行末に句読点がこないように調整しているそうなので、拙文の「こだわり」とは若干異なりますが。

このコラムに関して『神社新報』の版面上で自分がした操作は、まず単語レヴェルで各語が行末と行頭に分離しないようにすること。最近は比較的どの媒体でもそれを意識しています。
これは、単語が分割されてしまうと言葉の意味を瞬間で認識しづらいだろうと思うからです。

また『神社新報』の「杜に想ふ」欄は上下2段組みなので、ここでも1段落が上下に分かれてしまわないように行数を調整しています。
ひとつの意味の塊である段落において左上から右下までの視線の移動があると、そこでもわずかながら間が空いてしまうので。

図1:植戸万典「こだはりの怪」(『神社新報』第3652号掲載)より

そして、今回のコラムは淡々とした読み味を目指したので、各段落の「形」が同じになるようにしています。具体的には、1段落の行数と最終行の長さを揃えることにしました。図1のような感じです。
と言っても、行数は段落によって8行(青枠)または9行(赤枠)なのですが。これは、このコラム欄の規格の行数に合わせるためが大きい理由ですが、当該段落で扱っている内容に応じて1行分多い赤枠の段と少ない青枠の段に分けて対応させています。ざっくり言えば、赤枠の方は一般論的な話題に属し、青枠の方は具体的なエピソードについて述べています。感覚的な分類ですけれど。
各段落の最終行は、すべて17文字に揃えました。ちょっと長かったかもしれません。

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