衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

自分が物書き的にこだわったりこだわらなかったりしている一つ二つ(その2)

植戸万典(うえと かずのり)です。無駄を愛する人間です。
正確に云えば、ムダな無駄は嫌いだけどムダじゃない無駄が好き。

それはたぶん、「無駄」よりも「のりしろ」とか「余白」とか云った方が良い類のものなのだろう。

文章は紙面いっぱいに字を埋め尽くした方が情報量という意味での効率は良いけど、紙の上下左右や行間文字間に適度な余白がなければ読みづらい。

教科書を開けば、余白のそこはちょっとした手遊びの落書きスペースになったりもする。

そういった実利がなかったとしても、余白がちょうどいい具合にデザインされた紙面はそれだけで美しく愛おしい。

そんな意味での無駄を、自分は愛している。

自分の些細なこだわりが、その手の無駄になっているのかはわからない。
ただ、なんならまったくの無駄に終わってしまうようなことほどこだわって書いてしまう癖は、なかなかやめられない。「これは無駄だよなぁ」と思いながら、それでもその無駄の方を愛してしまうのだ。
まぁ、そういうふうにこだわればこだわるほど、益々そこに新しいこだわりが積み重なって自らを縛ることになるのだけど。

例えば、下の紙面もそんな無駄なこだわりで構成されている。

https://assets.st-note.com/img/1638600900016-V7Tam9RGk8.jpg

(『神社新報』令和3年8月23日号「雑草と校正」より)


しばしば寄稿させていただいている『神社新報』のこの欄は、紙面の組み方があらかじめ決まっている。
2段組で、1行当たり20文字、左上には8行分程度のシリーズロゴ。
そんなふうに組版のルールがわかっているので、最近の自分はそれに合わせて原稿を書くこととしている。
すると何が良いのか。

作文の段階で、紙面になったときの読者の読みやすさを考えて書くことができる。

その読みやすさのひとつが、上の画像のように、文章が行をまたぐときには単語が途中で切れて次の行になることが起きないようにすることだ。
行末から次の行頭まで目線の移動があるとき、単語が分断されていない方がストレスが少ない。だからそうする。書き手が組版をコントロールできないなら諦めるけど、できるなら読みやすい方が読者も嬉しかろう、という理屈だ。
そのため自分は、単語を言い換えたり句読点を工夫したりして、改行によって単語が切り離されてしまわないようこだわっている。無駄なこだわりだと理解しつつ。

さらに、2段組であれば、段が変わるときにも一段落が分割されていない方がより読みやすい。
上の左端から下の右端に目線移動があるので、そのタイミングで段落替えがあった方がリーダビリティに繋がるのではないかと思っている。
書籍だったら文章の途中での改ページをしない、とかいう理屈と同じだ。

ただ、こちらが望む読まれ方によっては、あえてそれを外すときもある。

https://assets.st-note.com/img/1638600989663-WM7p3gwLUT.jpg

(『神社新報』令和3年6月21日号「非一般の神社関係者」より)


上の画像のコラムでは、上段最後の部分で「“非一般男性”と結ばれたと云い得る俳優は…」などと読者に考えさせる構造の文章なので、その答えの部分がすぐ横の行にあっては自然と視界に入ってしまい、ただでさえナンセンスなのにさらに面白みが半減してしまう。
だから、「グレース・ケリーだろう。」という結びの部分だけを下段にして、問いと答えの文章を遠ざけた。

もっとも、こういった操作もウェブ配信になれば、端末やらブラウザやらの閲覧環境の問題でまったく無駄になってしまうのだけれども。

ただ、そんな無駄を自分は今後も繰り返していくはずだ。
無駄を愛しているので。
この投稿もそんな無駄の一環なのだろう。

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