衒学屋さんのブログ

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「龍の年にあけまして」——資源活用事業#33

植戸万典(うえとかずのり)です。桃の節句の挨拶は「おめでとう」で良いのでしょうか。

能登半島地震から2か月が経ち、状況も一息ついた頃となりましょう。なので今回は年始に書いたコラムをば。
恒例なので一応書いておくと、寄稿したときは歴史的仮名遣ひでした。一応。

コラム「龍の年にあけまして」

 新年挨拶もしきれぬうちの地震に、被災地にはお見舞いとこれからの平穏を祈りたい。
 地震は鯰が起こすと語られた時代がある。江戸期には、鹿島の神が要石によって大鯰を押さえ込むなどといった趣の錦絵が作られていた。そうした鯰絵は幕末の安政の大地震の際に流行したものだが、地震鯰という観念は豊臣秀吉の伏見築城の頃にはあったようだ。
 鯰絵に先立つ中世日本には、地底に伏した龍が地震を起こすという説も流布していたという(黒田日出男『龍の棲む日本』参照)。それは、江戸初期の「大日本国地震之図」や後期の「ぢしんの弁」等にも、ウロボロスのように自らの尾を咥えて環になった龍っぽい生き物(地震虫)が行基図様の日本の国土を取り巻いている絵地図として見られる。
 もっとも、ポロヴニコヴァ・エレーナ氏の論文によれば、庶民向けの百科事典的暦占書である大雑書に元禄期の頃から同類の絵図が「地底鯰之図」の題で挿入されていること、また「大日本国地震之図」の詞書でもそれは魚だとしていることから、その龍的な生物は関東では未だ鯰のいなかった江戸中期までに想像で描かれた鯰とも思われる。また竹生島縁起では龍が鯰に変じたとされるし、或いは龍のイメージを重ねたものかもしれない。
 今回の北陸の地震では、辰年だからと龍に因果を求めたり、辰の字は「ふるう」の意があるからだと語りたがる者も現れかねない。だが、この地震は龍でも鯰でもなく、地底の流体上昇が一要因に推定されているものだ。陰謀論同様、必要以上に人智を超えたものに現象の説明を頼ることも健全な信仰態度とは云えまい。直接の被災を免れた身としては、時々に応じて災害をどう捉えるかを自ら問い続けてゆくことが肝要なのだろう。
 自然現象は天地の理。地球は人類の暦なぞ忖度しないのだから、元日にも地震は起こり得る。実際、昭和五十九年の三重県南東沖や平成二十四年の鳥島近海での元日の地震では多数が相応の揺れを感じたはずだが、それはどれだけ覚えられていよう。反省しかない。
 近年の災害を通じて再認識されたことは、緊急時になにより優先すべきは人命だということ。その点は神社も一市民と同じであって特別ではない。文化財保全や祭祀の厳修も個人的には重要事だが、それを考えることも事態が一定程度落ち着いてからだ。さらに、人間の力では如何ともしがたいその出来事を飲み込むため、現象を説明するだけの科学の先に超自然的なものへ心の安寧を乞うこともあろうが、それとて災害がまさに起きている最中では命を救う力とはなりがたい。そう、本来なら本稿も一旦息のつけた後に書くべきだった。が、少なからず縁ある当地の新春の惨状には筆を執らずにもおられなんだ。
 鯰絵には地震の禍を福に転ずるさまを描く作もある。ともかく彼の地には「あけましておめでとう」と早く伝えられるようにしたいものだ。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和6年1月15日号)より

「龍の年にあけまして」のオーディオコメンタリーめいたもの

本コラムの原稿〆切は年明けすぐでした。仕事始めと同時に編輯に進められる日程です。なので旧年中には別稿を仕上げ、なんやかんやと大晦日を過ごしていました。
なのですが、正月早々の地震を受けてそれを放っておくこともできず、急遽テーマを変えて三が日のうちに必要な情報を調べ、構成も組み直し、新たに書き上げたのが本稿です。そういったものなので文章はちょっと荒っぽい雰囲気になったかもしれませんが、かえって切迫感も出せたかもしれません。

こういった記事を書く場合、手元に資料がないときはたとい内容は理解していても念のため資料を図書館などで確認しておくのが常です。
ただ今回は年末年始でどの図書館も閉館していましたので、たいへん難儀しました。内容はおおむね誤ってないと思いますが、細かいニュアンスがきちんと伝えられているものか。

ちなみに、文中のポロヴニコヴァ・エレーナ氏の論文とは、主に「大雑書に表現される「世界」観―「須弥山図」と「地底鯰之図」を中心に―」(『日本思想史学』第46号、2014年)を参照しています。

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