衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

鬼締め

植戸万典(うえと かずのり)です。寒中お見舞い申し上げます。
連休明けはさらなる寒さと降雪が心配されていますが、対策はぬかりなく。

帰省自粛が叫ばれたこの年末年始は、外出を控えておせち作りと共に年も明け暮れた。
神社へも松の内はリモート参拝ならぬ遙拝のみだ。
例年なら今頃は鏡開きをしてお屠蘇気分もとうに切り替え時のはずだが、今年はまだまだそんな穏やかな雰囲気には程遠い。
まあ初詣は節分過ぎまで味わっても宜しかろう。
何せ、御利益に変わりはないらしいので。

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この年越し支度で思い出したが、幼少時、正月料理のひとつに「鬼締め」があると思っていた。
(ごまめ)は「御健在(ごまめ)」の意とか、紀州に産の柑橘類ジャバラは「邪を祓う」の意とか云うのと同様に、験を担いだ膳があると。
どんなものかと幼心に想像していたが、何のことはない、「お煮しめ」の勘違いだった。
我が郷里の愛知県には、縄で締め上げられたような姿の鬼が闊歩する「鬼祭」という祭礼があるので、そのイメージが思い込みに影響したのかもしれない。
実際には縄ではないらしいが。

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この程度の勘違いなら可愛いが、こうした語呂合わせをその言葉の語源とまで云い出すと厄介だ。
例へば最近、おむすびは「産霊(むすひ)」が由来だとしばしば耳にするが、素直に考えれば「結ぶ」の名詞化だろう。
「武」の字は戈を止めると書くのだと王が臣下に諭したような言葉遊びや地口を用いた訓話ならば兎も角、言語学に依らず語源を俗解すれば、どこぞの5歳児に𠮟られる謬説を生みかねない。

5歳児の𠮟責ならば可愛いが、思い込みで他者を攻撃する者になると厄介の度は増す。

鬼を滅する刃ではないが、豆は「魔滅」に通じると云う。
これも語呂合わせ。
その豆を撒いて鬼を遣らう節分は今年、去年までとは異なって立春が2月3日のため一日早い2日だ。
これは天文に基づいた日時に意味があるので、勘違いしないようにしたい。

この節分行事は、宮中の年中行事における追儺に遡るとも云う。
古代の追儺では、師走の大晦日に長身の大舎人が黄金四目の仮面に玄衣朱裳を着し、戈と楯を手にして方相氏となり疫鬼を追い払った。
けれどもその方相氏は9世紀の中頃以降、鬼そのものだと勘違いされるようになる。
葬送にも関与していたことから触穢思想のためと説明されることもあるが、根本的にはその異形な容姿と、また追い立てられる疫鬼が現実には不可視なためであったのだろう。
飽く迄も一時的な儀式上の役柄だから良いが、方相氏には不憫な話だ。

今年の元日、天皇陛下は新年ビデオメッセージで、COVID-19の感染者や医療従事者、またその家族への差別や偏見をも案じられたが、そうした差別や偏見も、元々は正義感に立脚しているのだろう。
だがそれら正義感の根拠は思い込みのことも多い。
勘違いで罪人の如く扱われた無辜の人は史上数知れない。

善悪の彼岸』でニーチェはかく語りき。
「怪物と戦うとき、その過程で自らも怪物とならぬよう心せよ」と。
鬼を遣らう方相氏も鬼とされた。
たとい発端は事実でも、正義の人は容易く怪物ともなる。
ましてや、思い込みで鬼を締め上げる「鬼」とならぬよう、努々気を引き締めていたい。

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