衒学屋さんのブログ

-Mr. Gengakuya's Web Log-

「度々足袋で旅をした」――資源活用事業#27

植戸万典(うえとかずのり)です。適当を愛する者です。

令和4年も年の瀬。
今年も記名無記名問わずいろいろな文章を書いてきましたし、それは昨年もそうであったように、来年も同様でしょう。

人生はよく旅に例えられますが、それなら来たる令和5年はどんな旅路にしましょうか。
まあ、来年のことは鬼が笑うと言いますし、新年の目標を春までに覚えているような人こそ稀少で、結局はなるようにしかならないのですけど。

コラム「度々足袋で旅をした」

 旅をするなら足袋を履きなさい、とは誰の言葉だったか。もちろん誰でもない。さっき適当に考えたものだからだ。そんなふうに、旅には緻密な旅程以上にその時々の適当さが肝要だと個人的には思っている。
 旅先の夕餉、ふらりと立ち寄った居酒屋で飲んだ地酒を気に入り、帰り路の列車を待つ間に駅近くの店でその酒を買い求めるというその場限りの適当さも旅行の醍醐味だろう。先日から始まった全国旅行支援のおかげで、最近もそうした偶然の出会いに恵まれた。
 この秋、長野県の遠山郷を訪ねた。信州の奥座敷と称されているらしく、まあ祕境だ。彼の地ではこれから霜月祭りの季節を迎え、各神社で湯立神楽が舞われるのであろう。
 遠山には、諏訪方面から遠州秋葉山へ続く秋葉街道が通る。面白いことに、秋葉街道を歩くと「秋葉山大権現」に「金毘羅大権現」を併記した石碑や灯籠が多く見られる。江戸後期の『東海道名所図会』にも、秋葉街道を行く参詣者の笈に両神名を並べて書き入れたと思しいものが描かれているから、江戸時代には秋葉山に詣でて金毘羅までを旅する人が間々いたのだろう。道の様子を知るだけならグーグルストリートビューでも事足りるが、旅をして初めてわかることもある。
 基本的には出不精だが、空の青い日にふと遠出がしたくなる。不要不急の外出だ。その不要不急の貴さはこの三年弱で身に沁みた。山粧う峡谷を通るローカル線に揺られたり、トンネルを抜けた先に煌めく海を眺めたり、旅路のなかのそうした体験に飢えていたことをあらためて感じる。海外にも行きたいが、それはさすがにぶらり途中下車でというわけにはいかない。だから疫禍の直前に更新したパスポートの査証ページはまだ真っ白だ。
 これまでは神社関係者として旅することもあった。世間的にそれは出張と呼ばれるが、仕事といえども旅は旅。現地の文化を訪ね、現地の食を知り、現地の神社仏閣教会その他を取材するのは楽しいものだ。ときに奇妙な旅になることもあり、ある年にはロンドンの日本国大使館で伊勢うどんを振る舞い、またある年は一夏のうちに北は択捉島、南は尖閣諸島というセンシティヴな土地を制覇した。それはどんな出張だと問われると説明に困るけれど、文化交流とか慰霊とか、いずれ神社関係者としての仕事だったことに相違ない。
 日米開戦の端緒である真珠湾攻撃からもう八十年が過ぎ、今年もその日が近い。出張の旅では、神社関係者としてその日に白衣白袴でハワイの戦跡や慰霊施設を巡ることも度々あった。裸足にサンダルで常夏の島を楽しむ観光客を横目になぜ己は足袋に雪駄なのかと虚しくならなかったと云えば噓だ。もっともそれも含めて旅の体験なのだろう。
 旅のエッセイだとここで人生を旅に喩えて締め括るのが定石だが、そんなものはとくにない。そういう適当さこそが自分にとっての良い旅だからだ。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年11月28日号)より

歴史的仮名遣ひに手が慣れると現代仮名遣いのテキストでもうっかり「いふ」とか「ゐる」とか書いてしまいます。
つまりこのコラムも、元の掲載紙で歴かなだったものを現かなにわざわざ直していて、我ながら面倒くさいことしているなと思っているものです。

続きを読む

「これは邪宗門のはなし」――資源活用事業#26

植戸万典(うえとかずのり)です。恥の多い生涯を送って来ました。それは太宰だ。

教科書的なイメージからか、あるいは有名な文学賞に冠されているからか、高尚な文学者と思われがちな芥川龍之介です。
“高尚な文学者の高尚な文学作品”なので敬遠されがちでもありましょうが、実際に読むとその文豪的なイメージから想像されるような読みづらさより、娯楽性が印象に残ります。我が推し作家のひとりです。新規の供給はありませんが。

地獄変」の続編的に新聞連載からスタートした「邪宗門」も未完のまま、100年前の11月に書籍として出版されました。
100年の結末お預けをくらっている読者としては、別の我が推し作家のひとりである某先生の「鵺の碑」を待つくらい、どうってことないというものです。

コラム「これは邪宗門のはなし」

 芥川龍之介の『邪宗門』初刊が春陽堂から発行されてちょうど百年が経つ。王朝時代の京を舞台に、公家の若殿の身に起きた顚末を描いた短篇だ。前半は説話集の翻案のような出来事から才走った若殿の人柄が表現されるが、あるとき洛中に「摩利の教」を布教する異形の沙門摩利信乃(まりしの)法師が現れると、物語は若殿と法師の因縁へ展開してゆく。
 摩利信乃法師は赤裸の幼子を抱く女菩薩の画像を幡に掲げて十文字の黄金の護符を頸に下げ、入信者には水で頭を濡らす灌頂めいた儀式を四条河原でしていたという描写から、作者は本作の「摩利の教」とはキリスト教の一宗派と設定していたのだろう。たしかに、すでに唐には「景教」ことネストリウス派が伝わっており、「摩利の教」はこれと見る説もある。ただ、ネ派はマリアを「神の母」とする教理を否定して異端とされたのだから、聖母子像と思しい聖画を掲げる法師の信仰と重ねるのも矛盾を感じる。飽く迄も切支丹物を得手とした芥川の創作と見るべきだろう。
 「邪宗門」はフィクションに過ぎないが、実際に社会的な混乱を齎す「邪教」とされた宗教は史上枚挙に遑がない。早い事例では、『日本書紀皇極天皇三年秋七月条に見える一件が有名だ。
 皇極天皇の御代、東国の富士川周辺に住む大生部多(おおふべのおお)という人物が、橘や山椒の葉につく蚕に似た緑の虫を「常世神」と称し、これを祀れば富貴と長寿が得られると村里の人らに勧めた。これを巫覡が偽の神託で援護すると布教の熱はさらに高まり、都鄙を問わず人々は常世の虫を座に安置して歌い舞い、家財を擲つようになった。しかしそれで富むはずもなく、身代を失う者も出る社会混乱へと発展したことで、多は討伐されるに至った。
 以後の歴史でも淫祠邪教として弾圧された宗教は数多い。基本的には時の政権にとって好ましからざる信仰や教団が対象で、近世はキリスト教、近代では大本などがその代表に挙げられる。終戦後の神道も、表向きであれ権力によって信仰の変容を余儀なくされたという意味では他人事でない。
 宗教は世俗の常識と異なる論理を持つからこそ救われる人もある。ゆえに、脱社会的な面を本質的に内包せざるを得ない。釈迦族の王子ゴータマも、ナザレの大工の子ヨシュアも、その言行は当時の常識的なものとは云い難いが、世に容れられない人がそれで救済を得もした。そうした点まで考えると、世俗を司る政治との関係は実にセンシティヴな問題で、社会はその落とし所の正解を未だ出せていないのだと昨今あらためて思う。
 芥川の「邪宗門」は、さあいよいよ法師と若殿の直接対決だ、という佳境で未完のまま終わっている。京に混乱を齎しながら信仰を貫く法師と、敬虔な信仰心なんぞまるで意に介さない若殿の、ふたりの関係はその後どうなったか。その行方は、誰も知らない。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年9月19日号)より

神社新報』掲載時の歴史的仮名遣ひは現代仮名遣いに直しています。
芥川作品を含めて近代文学の多くが戦後の出版の際にそうされていることにならったもの、というわけではありません。

続きを読む

「文を好む木の実の季」――資源活用事業#25

植戸万典(うえとかずのり)です。夏(の暑さ)がだめだったりセロリが好きだったりします。

雨は降るときは降るし、降らないときは降りません。
何が言いたいかというと、世の中は予想どおりになるとは限らないし、台風が近づいているからとコロッケを用意しているときに限って進路はそれたりするもの、ということです。
今年の台風もできるだけ被害が出ませんように。

ここで再掲するコラムも、雨の降る時季に載せたもの。
正確には、梅雨の時季に載ることを見越して書いていたのに、掲載号(7月4日付)の直前にまさかの東京では異例な早さの梅雨明け発表があって猛暑続き、ちょっとあてが外れちゃったなァとヤキモキしていたものの、結局掲載号当日は雨空になって少々安堵した、といったものです。
梅干しほどに酸味は効かせていませんが、箸休め程度になろうかと。

なほ、初出の『神社新報』では歴史的仮名遣ひを徹底してをりますが、こちらではすべて現代仮名遣ひへと直してゐるのはいつものこと。
ただ今回に関しては、旧仮名の方が味はひがあったかもしれません。

コラム「文を好む木の実の季」

 雨が降っている。
 雨音は心地好い。しとしとそぼ降る雨も、ざあざあ篠突く雨も、どれもその音は水気を帯びた大気をまるごと覆い、世界を少しだけ静寂の内に包んでくれる。
 雨は三余の一。漢籍に、冬と夜と雨の日が読書に適した余暇だとある。確かに、窓外の雨音を聞くともなしに聞きながら目で文章を追っていると心が満ち足りてくる。出版社のノベルティで付けられた広告の栞と書店員の職人技でかけられたブックカバーをちょっと申し訳なく思いつつ横に避けてお気に入りのそれらに替え、ひねもすページを捲るのだ。雨の匂いに紅茶のフレーバーでも添えられていたら、なお佳い。
 雨季をこの国は「梅雨」とも呼ぶ。字面に相応しく、その季節は黄色に熟した梅の実の桃にも似た馥郁とした香りが漂う。わが家も梅仕事を始めて、薄曇りの日のリビングには果実の爽やかな香気が広がった。水で洗い、へたを取り、氷砂糖と交互に硝子瓶に詰め、ホワイトリカーに浸す。酒精はブランデーやウイスキー、日本酒なども善い。この梅酒にありつけるのは半年後か、一年後か。
 雨天は机に向かうのに適する日だが、梅も古く「好文木」なる雅称が与えられてきた。漢籍に、とある皇帝が学問に励むと梅は花を開き、やめると花は散り萎れたという故事があるとされることに由来している。鎌倉中期の説話集『十訓抄』で広まった話だが、元は『晋起居注』が出典だと一般的には云われている。「起居注」とは、皇帝の言行を側近が書き留めたもので、後々史書編纂の素材ともされた記録だ。それの晋朝のものだろうか。平安中期に藤原佐世が纏めた日本最古の漢籍目録『日本国見在書目録』にも「晋起居注」の記載が見え、古く日本にも伝来していたと窺われるが、残念ながら現存はしておらず、しぜん伝聞調の表現になってしまう。
 雨に煙った遠山のように曖昧とした話だ。典拠として『晋起居注』が持ち出されるのも織豊期以降で、そうした史料でも皇帝は晋の哀帝だったり武帝だったりとちぐはぐ。そのためこの故事は以前から疑問視されてきた。近年になり韓雯氏の研究「「好文木」考」で論じられたところによると、菅原道真飛梅伝説の信憑性を高めるために伝説に付随して語られた作話と推測され、のちに室町時代の禅僧らの五山文学において道真公を学問の神として崇拝した天神信仰と彼らの愛梅趣味が結び付き、梅の「文を好む木」という印象が定着して、そこに『晋起居注』が出典として付されるようになったと考えられている。
 雨水が地面に染み込むように、鎌倉時代を発端とする梅と天神の特別な関係は日本中に滲透して、今や天満宮の梅園は枝もたわわに実を結ぶ。本を正せば作話だが、文道の祖にあやかる勉学の実りの象徴には、この時季の雨滴に濡れた梅の実ほど適役はいなかろう。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年7月4日号)より

続きを読む

「うちなーぬゆー」――資源活用事業#24

植戸万典(うえとかずのり)です。いろいろと難しいことも多いけど、なんくるないさ

6月23日は沖縄の慰霊の日。畏き辺りにおかせられては、終戦の日や広島・長崎の原爆忌と同様に忘れてはならない4つの日のひとつとされているとか。

沖縄戦だけでなく、古琉球から近世琉球沖縄県の設置などなど、琉球・沖縄の歴史はなかなか簡単に語り切れるものではありません。
それでもその歴史に敬意を表して、日本史をやっている身としてはそれを少しでも理解していたいと願い、今日は去る5月23日付の『神社新報』に寄稿しましたコラムを載せてみます。
もちろん、歴かなは現かなに改めまして。

コラム「うちなーぬゆー」

 わが家の書斎に並んだ招き猫に四寸ほどの黒い一体がある。京都は三条の檀王法林寺で拝受した品だ。同寺が祀る婆珊婆演底主夜神(ばさんばえんていしゅやじん)の使いとされる猫を象った置き物は、招福猫発祥説のひとつにしばしば数えられる。
 檀王法林寺を開いた袋中(たいちゅう)は、江戸時代初めに明を目指して海を渡り、琉球で念仏を布教していた。彼が主夜神を感得したのも、この渡海の頃と伝わる。袋中は琉球で王の帰依を受けて活動し、『琉球神道記』などを著したほか、エイサーの祖と云われることもあり、沖縄と縁深い本土人の一人として知られる。
 その沖縄では今月十五日、本土復帰五十年を迎えた。五十年前の復帰の日、波上宮では畏き辺りより臨時の幣帛料を賜わり奉告祭、翌日からは例祭の波上祭(なんみんさい)を賑やかに斎行している。また今年は、明治の琉球処分の始まりからは百五十年、米軍施政権下の琉球政府が置かれてからは七十年ともなる。唐の世(とうぬゆー)から大和(やまとぅ)世、米国(アメリ)世などと経て、再び本土と共に歩む万国津梁の沖縄(うちなー)の歴史を感じよう。
 琉日間交流は中世以来、存外活潑だった。海上交易のなかで那覇には多くの倭人が居留し、神道や仏教も外来宗教として伝えられていた。王府の庇護を受けた琉球八社などは、支配者層から特別な崇敬を寄せられている。近代に神社として鳥居が建てられた御嶽(うたき)も、地域住民に大切にされてきた。日本本土とは異なる信仰文化が強調されがちな沖縄だが、決してそれで語り切れるものでもない。
 さらに、平安期の武将源為朝流刑地から琉球に渡り、子の舜天が初代琉球王に即いたと琉球最初の正史などには記される。それは薩摩の琉球侵攻を正当化する方便ともされるが、『琉球神道記』などにも確認される逸話で、室町時代には京都五山の禅僧らを介して琉日間で知られた伝説らしい。こうした日琉同祖論が事実か否かは別として、琉球と本土の繫がりが浅くないことは確かだろう。
 一方で、そうした歴史を無邪気に喧伝することが完全に良いものかとの惑いもある。
 源義経蝦夷に逃れてアイヌの神となり、或いは大陸で清朝の始祖やチンギス・カンになったという伝説がある。判官贔屓が生んだ俗説だが、薩摩の琉球支配と為朝伝説の関係同様、時の為政者の対蝦夷、対大陸政策との関係も無視できない。日韓併合が進められた近代には歴史家が日鮮同祖論を唱えていた。現下の露国によるウクライナ侵攻はキエフ・ルーシを両国共通の祖と考える彼の大統領の歴史観が行動背景にあると指摘されたことと重ねてしまう。日ユ同祖論くらいのオカルトを娯楽で愉しむ程度なら可愛いものだが。
 史実や伝承を媒介に文化間の交誼が深まり一体感が生まれるのは史家の本望だが、その表裏関係として、歴史観を安易に政治と結びつける危うさには自覚的でありたいと思う。
 主夜神は闇夜で難に遭う人の光となる神。混迷の時勢、その加護を黒い猫像の向こうに願って已まない。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年5月23日号)より

続きを読む

「べし」――資源活用事業#23

植戸万典(うえとかずのり)です。常識だと思っていたものほど不確かだったものはない、というのが今の世界に対する現代人の実感なのではないでしょうか。

そんな大層な話題でなくても。
世の中には自身の狭い見識を全世界の常識のように押し付けてくる人がいてうんざりすることも多いですが、偉そうな肩書きの大人も実際はおおむね単なる小市民なので、全部を真に受けることはありません。という考えもあることを、新社会人の皆さまには頭の片隅にでも置いておいてほしいなという気持ちで、春先に『神社新報』へも拙稿を寄せました。
これもひとつの押し付けなのですがね。

コラム「べし」

 当然だと信じていたが実は当然ではない、という事柄は多い。例えば「三大神勅」とは天壌無窮・宝鏡奉斎・斎庭之穂の神勅が当然だと思っていたが、三大神勅なる考え自体が近代の産物で、しかも戦前はしばしばそこに神籬磐境の神勅を入れていたりと、固定したものではなかったらしいと最近知った。
 春を迎え、新社会人が巣立つ季節だ。大人になるのも二十歳が当然のことと思い生きてきたが、この四月には民法が改まって十八歳からが成年となる。高卒直後の就職者も既に成人ということ。ただ考えてみれば、古来の元服にも定まった年齢などなく、七、八歳のこともあれば三十代での例もある。長い目で見れば、社会の一員として認められる年齢も一律二十歳が当然とは云えない。
 新人研修も始まるこの時期はまた、各所で立派な大人たちが若人に「社会人は当然こうあるべきだ」といった「べき論」を垂れて、辟易されている頃でもあろう。連想するのは教訓茶碗という酒器だ。注ぐ液体が一定量を超えると底の穴からすべて流れ出る仕掛けの杯で、慾張って飲もうとすればすべて失ってしまうという教訓を示すものだが、有り難い訓示も度が過ぎれば教えは右耳から左耳へと抜けてしまうことに通じている気もする。
 酒器には可杯(べくさかずき)というものもある。注がれた酒を飲み干さねばならない猪口で、底に穴があって指で塞がねばならなかったり、独楽のように尖っていたりして、下に置けない構造をしている。漢文では「可」の字を「吾子孫可王之地也」とか「可与同床共殿、以為斎鏡」とかのように下に置かないことからこの名が付いた。遊興の座でなら楽しい道具だが、乗じて酒を無理強いするのに使うなら戴けない。同様に独り善がりな「べき論」も一方的に聞かせられるのは苦痛を伴おう。
 もっとも、お小言を云わねばならない立場というものもある。本欄のようなオピニオンもそうで、なにも好んで世を評しているわけではない。社会の幸いを願ったものだ。とは云え偉ぶった評論なんぞ小煩いだけであって胸に残らないのだから、せめて拙いながらもユーモアだけは忘れずにいたいと思う。
 江戸時代後期の備後国儒学者・菅茶山の漢詩にこのようなものがある。
  一杯人呑酒 三杯酒呑
  不是誰語 吾輩可
 「酒人某扇を出して書を索む」と題する作で、一杯なら人が酒を飲むが三杯ともなると酒が人を飲む、これが誰の言葉かは知らぬが私はいつもこれを心に留めていよう、という内容だ。同旨の記述は江戸中期の天文学者・西川如見の『町人嚢』にも見える。扇に一筆求めてきた酒客に飲み過ぎを戒める詩を作るというのもユーモアに富んでいて好ましい。
 当然と云い切れるものは無い。後進を導く同じ「べき論」でもユーモアのある方が人を動かすのだと肝に銘じておくべきなのだ。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年3月21日号)より

なお本紙では歴史的仮名遣ひでした。
そして漢文の返り点もちゃんと紙面には反映されていました。

続きを読む

菊の紋章と神社の近代

要旨

  • 菊花紋章は皇室の紋章として、明治から終戦後までは自由に使用できなかった。
  • 一部の神社仏閣では、菊花紋章の使用が限定的に許されるようになっていった。
  • 官祭招魂社も許されていたが、護国神社になって以降は新たに使えなくなった。
キーワード

菊花紋章/神社/官国幣社護国神社/官祭招魂社

主要参考文献
  • 佐野恵作『皇室の御紋章』昭和8年9月10日、三省堂/同改訂版昭和19年8月15日、桜菊書院)
  • 佐野恵作「菊御紋章と神社」(『神社協会雑誌』第35巻第8号、昭和11年8月5日)

  • 要旨
    • キーワード
    • 主要参考文献
  • はじめに:なぜ神社で菊の紋を用いるのか
  • 菊紋使用制限の歴史:明治初年以来の変遷
  • 護国神社の菊花紋章:官祭招魂社時代から
  • おわりに:戦後も神社では続く菊紋の自粛
社殿の幕に使われる十六葉八重表菊の紋(筆者撮影/熊野本宮大社

はじめに:なぜ神社で菊の紋を用いるのか

神社に参拝すると、まれに鳥居や門扉、社殿を飾る幕などに菊の紋を目にすることがある。
菊の御紋といえば、現在では皇室の紋章だ。それが転じて、パスポートの表紙など、日本の国章のようにも使われている。
皇室が菊を紋章とするようになるのは中世以来のこととされる。作刀を好んだ後鳥羽天皇がみずから打った刀剣には菊紋が彫られ、そうした刀は「菊御作」などと呼ばれた*1
現在では菊花紋章の使用について公的な制限は無いものの、明治維新から第二次世界大戦の頃までは政府による規制の対象となっていた。皇室以外で菊花紋章を使用することは事実上できなかったのである。
では、今も神社仏閣で菊花紋章を見ることがあるのはなぜなのか。これは「国家神道」だったから、なんてふんわりとした理由では語れない。

*1:皇室の菊花紋章はこの後鳥羽院を起源とすることが通説だが、近年では藤澤桜子氏がその博士論文「皇室紋章の起源と変遷」(平成28年度・広島大学)において、後鳥羽院の好みは遠因であるものの直接的には寛元4年(1246)に後嵯峨上皇後鳥羽院に擬する意図で用いたことが始まりだと指摘している(皇室紋章の起源と変遷 - 広島大学 学術情報リポジトリ)。

続きを読む

「市の虎は真実を食う」――資源活用事業#22

植戸万典(うえと かずのり)です。国際情勢も混迷し、さまざまな情報の飛び交っている昨今。誰の言う何が本当で、あるいは嘘なのか、朝夕のニュースを見ているだけでは真実を計り知れません。

世界がこうなることなど全く見越していたわけではありませんが、今回の資源活用事業はそんな「真実」と「嘘」について、今年1月の『神社新報』に載せたコラムを利用します。
とはいえ、新年のご挨拶的なもの。寅年なので虎にちなんだお話、という程度のコラムです。
そしてここでは新仮名遣いにしていますが、もちろん原稿作成の段階から掲載時まで完璧に旧仮名遣ひで書いていました。これは嘘じゃありませんよ。

コラム「市の虎は真実を食う」

 『戦国策』に曰く、魏の臣龐葱(ほうそう)は、敵国の趙へ魏の太子とともに人質となりに行く際、王に問うた。「もし今、市場に虎が現れたと一人の者が申せば王はお信じになるか」と。王は「否」と頭を振った。龐葱は次に「二人の者が申したら如何」と尋ねた。「もしやと疑おう」とは王。するとさらに龐葱が「では三人なら」と重ねると、ついに王は「信じるであろう」と返した。そこで龐葱は続けた。「市に虎のあるはずもないことは明らかにも拘らず、斯様に三人して云えば虎が出ます。魏を去ること趙の都は市場より遙かに遠く、また私をとかく評する者は三人に収まりますまい。王にはどうかこれをお察しを」と。
 人質となった自分達が敵に取り込まれたと謗られることを彼は恐れたのだろうか。この故事から、事実無根の風説でも大勢が云えば信じられるようになることを「市に虎あり」や「三人虎を成す」などと云う。虎にちなむこの年の初めに相応しい成語だ。
 情報社会の現代では、マスメディアだけでなくオンラインネットワーク上もさまざまな言辞で溢れている。そこでは火のない所にも煙が立ち、真実を喰らう市の虎が跋扈する。そのさまは歴史学とも無縁でない。歴史学の歴史は、訛偽との戦いの繰り返しだった。
 文献からの情報で成り立つ歴史研究では、史料が偽だったり、先行研究が誤報の発信源だったりして惑わされることもしばしばだ。例えば、今年注目の鎌倉殿こと将軍源頼朝は「後白河院の寵臣藤原信頼を烏帽子親として元服」(『平安時代史事典』)したなどとも云われたが、管見の限りではその典拠となる史資料は見当たらない。これは、永原慶二著『源頼朝』が状況から推定した部分を断定調にしてしまったものだろう。
 偽書や偽文書も厄介だ。東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)ホツマツタヱなどは有名だが、義経が頼朝に心情を訴える「腰越状」や、清和源氏が実は陽成源氏かと示唆した「源頼信告文」など、学界における議論は尽きない。ただ、近年は史料批判による真贋論を超え、偽文書自体が積極的に研究対象とされるようにもなった。久野俊彦・時枝務編『偽文書学入門』はその嚆矢だろう。また馬部隆弘著『椿井文書』は、椿井文書が「三人虎を成す」のとおり、複数の偽文書によって情報を補いあうことで信憑性を生み、神社の由緒・縁起にも影響を及ぼして、それが今の町おこしにまで繋がっていることを論じている。
 虚実の入り乱れる現代社会は、嘘の影響も軽視できなくなっている。こう云うと「私は嘘は嘘であると見抜ける」と思いがちだが、そう簡単なことだろうか。そこで最後に件の魏王の顛末を見て、本稿の結びとしたい。
 王は龐葱の奏上に「自ら智慧を働かそう」と応じた。しかし彼らの到着より先に讒言は王に届いた。後に太子は人質を解かれるが、果たして王へは目通り叶わなかったという。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和4年1月24日号)より

続きを読む