衒学屋さんのブログ

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菊の紋章と神社の近代

要旨

  • 菊花紋章は皇室の紋章として、明治から終戦後までは自由に使用できなかった。
  • 一部の神社仏閣では、菊花紋章の使用が限定的に許されるようになっていった。
  • 官祭招魂社も許されていたが、護国神社になって以降は新たに使えなくなった。
キーワード

菊花紋章/神社/官国幣社護国神社/官祭招魂社

主要参考文献
  • 佐野恵作『皇室の御紋章』昭和8年9月10日、三省堂/同改訂版昭和19年8月15日、桜菊書院)
  • 佐野恵作「菊御紋章と神社」(『神社協会雑誌』第35巻第8号、昭和11年8月5日)

社殿の幕に使われる十六葉八重表菊の紋(筆者撮影/熊野本宮大社

はじめに:なぜ神社で菊の紋を用いるのか

神社に参拝すると、まれに鳥居や門扉、社殿を飾る幕などに菊の紋を目にすることがある。
菊の御紋といえば、現在では皇室の紋章だ。それが転じて、パスポートの表紙など、日本の国章のようにも使われている。
皇室が菊を紋章とするようになるのは中世以来のこととされる。作刀を好んだ後鳥羽天皇がみずから打った刀剣には菊紋が彫られ、そうした刀は「菊御作」などと呼ばれた*1
現在では菊花紋章の使用について公的な制限は無いものの、明治維新から第二次世界大戦の頃までは政府による規制の対象となっていた。皇室以外で菊花紋章を使用することは事実上できなかったのである。
では、今も神社仏閣で菊花紋章を見ることがあるのはなぜなのか。これは「国家神道」だったから、なんてふんわりとした理由では語れない。

菊紋使用制限の歴史:明治初年以来の変遷

神社仏閣には古くから菊花紋章を装飾的に用いてきたものがあり、さらには一般人の間でもそうした例は江戸時代までそこかしこに見られた。
そのような菊花紋章を明治政府が取り締まるようになるのは、明治元年3月28日*2太政官布告第195号「會符傍示杭等ニ禁裏御料禁裏御用ノ文字ヲ書シ及ヒ提燈器物等ニ菊章ヲ繪クヲ禁ス」*3

提燈又ハ陶器其外賣物等エ御紋ヲ畫キ候事共如何ノ儀ニ候以來右ノ類 御紋ヲ私ニ附ケ候事屹度可禁止旨被 仰出候事
 但御用ニ付是迄被免之分モ一應伺出可申事

で、その私的使用を禁じたことが初例と見られる。

次いで明治2年2月28日の布告「宮堂上菊章ノ器物ヲ其祈願所ニ寄附シ及新ニ祈願所ヲ設ルヲ禁ス」*4で、これまで皇族や貴族らが諸国の寺院を祈願所として菊紋付の品を寄付してきたものを、以後は禁止するとした*5

同年10月10日には京都の留守官によって、親王家等が従来社寺へ寄進してきた物品につき、朝廷の寄付品と紛らわしいためその菊花紋章を改めるよう通達される*6

そしてついに明治3年3月17日には「親王家等にて菊御紋付の品を社寺へ寄附するを禁ずる件」*7で、親王家の菊紋葉替または裏表等の菊紋の品も社寺への寄付が禁じられた*8

さらに明治4年6月17日の太政官布告第285号「菊御紋章は、皇族の外、すべて禁止の件」*9

菊御紋禁止ノ儀ハ兼テ御布告有之候処猶又向後由緒ノ有無ニ不関皇族ノ外総テ被禁止候尤御紋ニ紛敷品相用候儀モ同様不相成候条相改可申事
 但従来諸社ノ社頭ニ於テ相用来候分ハ地方官ニ於テ取調可申出事

と布告され、菊花紋章及びそれに紛らわしいものは皇族以外の使用が禁止された。
ただし神社の社頭で従来用いてきた分については、地方官において取り調べて申し出ることになった。

以上がおおまかな菊花紋章規制の経過だ。

一方で神社仏閣に向けては、明治2年8月25日の太政官布告「社寺ノ菊章濫用禁止ニ關スル件」*10

社寺ニテ是迄菊御紋用ヒ來ル者不少候處今般御改正相成社ハ伊勢八幡上下賀茂等寺ハ泉涌寺般舟院等之外ハ一切被差止候旨被 仰出候事
 但格別由緒有之社寺ハ由緒書ヲ以テ可伺出候事

とされ、神社では伊勢神宮石清水八幡宮賀茂別雷神社賀茂御祖神社等、寺院では泉涌寺・般舟院等以外は(格別の由緒がある社寺を除いて)菊花紋章の使用が差し止められた。皇族・貴族らによる社寺への菊紋付寄付品が規制されるようになって半年後のことである。

しかしその後、明治7年4月2日になると太政官達「官幣社社殿ノ装飾及社頭ノ幕提燈ニ限リ菊御紋ヲ用フルヲ許スノ件」*11が出される。
官幣社には

社寺ニテ菊御紋相用候義禁止ノ旨明治二年己巳八月布告候處自今官幣社社殿ノ装飾及社頭ノ幕提燈ニ限リ菊御紋相用不苦候條此旨管内官幣社ヘ可相達事

として、菊花紋章の公然使用が認められる。
これは、明治2年8月の布告にある「格別由緒有之社寺」として願い出た神社が相当数ありながらいずれも許可されていなかったものの、明治6年9月18日に井伊谷宮白峯宮鎌倉宮(いずれもこの時に官幣中社が認められたため、同様の由緒の神社には許可しないわけにはいかなくなったためらしい。

この太政官達は国幣社に対しても明治12年4月22日に出され、官幣社と同様に菊花紋章の使用が認められることとなった。
これも、国幣社からの願い出も多いなか、官幣社や、後述の福島の招魂社だけに菊花紋章を許可するというのは均衡を欠くということであったようだ。

なお、ここでの「官幣社」・「国幣社」とは、近代社格制度において国からの幣帛を大祭などで受ける神社のことで、古代の律令制下における官幣社神祇官から例幣)と国幣社国衙から奉幣)のことではない。

さらに、国幣社に許可した1箇月後の明治12年5月22日には、太政官達「菊御紋禁止ノ布告前神殿ニ装飾ノ御紋存置ノ件」*12で一般の社寺においても明治2年8月の布告以前から神殿仏堂に粉飾していた分については存置してもよいこととなった*13

以上をまとめると、明治以降の神社は

  1. 伊勢神宮石清水八幡宮賀茂別雷神社賀茂御祖神社等で用いる菊花紋章(明治2年〜)
  2. 官幣社の社殿の装飾及び幕・提灯で用いる菊花紋章(明治7年〜)
  3. 国幣社の社殿の装飾及び幕・提灯で用いる菊花紋章(明治12年〜)
  4. 上記1〜3の他、明治2年8月(「社寺ノ菊章濫用禁止ニ關スル件」布告)以前から社殿の装飾に用いられてきた菊花紋章(明治12年〜)

が公に許されており、この他は各段階で個別案件だったということになろう。
当初は厳格に運用しようとしていた明治政府だが、実情で徐々に緩和していったことが見てとれる。また規制が厳しかった間においても、特別に認められる余地は残されていて、それがさらなる規制緩和を惹起しているなど、なおのこと実情の無視はできなかったようだ。

護国神社の菊花紋章:官祭招魂社時代から

神社に菊花紋章を使うのは官国幣社だけではない。
国との関係でいえば、全国の護国神社はどうだったのか。

護国神社昭和14年以前は「招魂社」と呼ばれていた。広義の招魂社は明治時代には各地にあったが、その中でも国事殉難者らを国として公的に祀った(官費を支給した)ものを「官祭招魂社」といい、それが後に「(指定)護国神社」へと制度移行する*14

官祭招魂社については、上記の官国幣社のように全体へ向けた太政官達などが見られるわけではないものの、やはり菊花紋章の使用が認められていた。
ただしそれは、官国幣社よりも限定的なものであり、さらに官国幣社よりも流動的なものであった。

まず明治11年、上でも少し触れたように福島県からの伺いに応じて府県の招魂社の社殿に対する菊章の彫鏤が認められた。
国立公文書館の「府県招魂社社殿菊章彫鏤伺」で確認すると、この年の9月26日付で福島県(山吉盛典県令)から内務省伊藤博文内務卿)宛に県の招魂社の扉や鰹木に菊花紋章を使用することについて照会*15があると、10月14日付で内務省太政官三条実美太政大臣に伺い*16、それが11月7日に伺いの通り許可されたのである。
この時に政府が許可した理屈としては

別紙内務省伺招魂社社殿菊章彫鏤ノ儀取調候処既東京招魂社社殿ニ菊章相用候上ハ府縣招魂社モ同様相用不苦儀ト存候間左ノ通御指令相成可然哉仰高裁候也

と法制局は書いており*17、既に東京招魂社(後の靖国神社が社殿に菊花紋章を使っていたため府県の招魂社も問題ないものとされたようだ。
この時点で菊花紋章が認められていた神社は官幣社にとどまり、またこれは全ての招魂社に対する処置でもないため、福島への対処はかなりの厚遇であったと云えよう。

次に明治22年長崎県からも、招魂社は官祭であって一般神社とは性質が異なるのだから幕や提灯に菊花紋章を付けても良いか、という伺いがあった。
この段階では既に国幣社にも菊花紋章の許可範囲は広がっており、制限されていたのは府県社以下の神社である。官祭招魂社は府県等からではなく官費で祀られるものであったため、そのような疑義が持たれたのだろう。
宮内省総務課書記官の佐野恵作による『皇室の御紋章』*18によると、この長崎からの伺いに対して政府は

去ル十一年中内務省ニ於テ福島縣招魂社々頭ノ装飾ニ御紋章附着ノ義允許相成タル類例モ有之候ニ付テハ自今官祭ノ社ニ限リ御紋章相用候義御允許可相成哉

として、社頭に用いる幕・提灯に限って菊花紋章の使用を3月22日付で許可した*19。これにより、官祭招魂社が官国幣社についで菊花紋章を使えることが確認されたのである。

ここで注目されるのは、このときの長崎への対応に際しては明治11年の福島の事例が認識されていながら、福島では許可されたはずの社殿の装飾は対象外とされていることである。

佐野恵作もこれを「菊御紋章と神社」*20

招魂社に對して許可された範圍は、官國幣社に許可された範圍より狹く、單に社頭に用ふる幕と提燈とだけで社殿の装飾は許されてゐないのである。

と述べている。
福島の事例以来11年の間で扱いを厳しくした事情は種々あるのだろうが、いずれにせよ長崎への対応以後、官祭招魂社に対しては官国幣社と異なって菊花紋章使用を認めるのは幕と提灯のみとなり、社殿への装飾はその範囲外とされたのであった*21

その後、昭和14年4月1日より従来の「官祭招魂社」は「護國神社*22に改められると、以下の通牒が出た*23

護國神社ニ於ケル菊御紋章使用許可ノ取扱方ニ關スル件

(昭和十四年五月二十三日 發社第一二八號神社局長警保局長通牒)

護國神社ニ於ケル菊御紋章使用方ニ關シテハ一般府縣社以下神社同様明治二年八月二十五日太政官布告前ニ於テ神殿に粧飾シタル分ハ其ノ儘存置シ得ルトコロナルモ社頭ノ幕及提燈ニ付テハ從前ノ官祭招魂社當時特ニ當省ノ允許ヲ得テ使用シ來リタルモノヲ除キ之ガ使用ヲ許サレザルモノトシテ御取扱相成度

これを神祇院書記官の武若時一郎は、『地方行政全書 神社法』*24

護國神社に於ける菊御紋章の使用に關しては府縣社以下神社と同樣であるが、官祭招魂社の當時、内務省の免許を得て社頭の幕及び提燈に使用し來つたものは、將來も引續き使用することを認められる

と述べている。
官祭招魂社時代は官の祭祀にあずかる社だったため菊花紋章も許可されていたが、護国神社となってからはその地位も府県社以下の神社と同等であると確認されたため、菊紋の使用も府県社以下と同じような扱いとなったのである。
しかしそれでも、既に官祭招魂社の頃から使っているものまでを禁じるということはなかった。

佐野恵作も『皇室の御紋章』の改訂版で追加した附録「御紋章に關する質疑應答」のなかで、このように答えている*25

(問)全國各地方に祭つてある護國神社に御紋章を拜用してよろしいか。
(答)護國神社で拜用することは見合せることになつてゐる。
護國神社は從前招魂社と稱してゐたもので招魂社のうち官祭招魂社については、既に本篇「菊御紋章使用許可の實例」*26といふところで述べたやうに、社頭に用ふる幕と提燈へは差許されたのであつたが、昭和十四年招魂社が護國神社となるに及んで別に社格は附せざることゝし府縣社と同樣の待遇を與へることゝなつて御紋章は之を拜用せしめないことになつたのである。
一、前に許し、今は許さぬといふことは一見矛盾してゐる樣にも考へられるのであるが、すでに靖國神社に英靈鎭り、別格官幣社としての社格を賜はり、且つ臨時大祭には畏くも聖上行幸御拜禮の榮を賜はることは眞に最上至高の餘榮である。地方に分散する護國神社はこの分身であつて、社格もなく府縣社と同じ扱ひになつたので菊御紋章の拜用は御遠慮申上げたものであらうと思ふ。
一、從來許されてゐた招魂社即ち福島縣の本殿・拜殿・幕・提燈、石川縣の本殿、北海道の本殿と幕、愛知縣の幕等は今俄かに撤去するといふ譯にも参らぬであらうが、將來適當の機會に御遠慮すべきであらう。

これらをまとめると、官祭招魂社・護国神社

  • 明治5年:東京招魂社(菊花紋章を社殿に使用)の本殿造営*27
  • 明治11年:福島招魂社の社殿に菊花紋章使用を許可(東京招魂社に倣う。その後、石川や北海道の招魂社も本殿に菊花紋章使用)
  • 明治22年:長崎招魂社の社頭に用いる幕・提灯に限って菊花紋章使用を許可(社殿は不可。以後、愛知などの招魂社はこれに倣って菊花紋章使用)
  • 昭和14年護国神社となり、府県社以下と同じ待遇となったため菊花紋章もすべての範囲で使用不可(ただし明治2年8月の布告以前*28から社殿に使用していた分の菊花紋章に関しては府県社以下同様に存置可。また官祭招魂社の頃に許可されて使っている分も引き続き使用可)

という沿革をたどったことがわかる。
神社に菊の御紋があるとなると皇室との由緒を想起して「国家神道」と結びつけたくもなりやすいけれど、むしろ官祭招魂社・護国神社は明治から昭和にかけて制度が整えられていく過程で菊花紋章の使用がだんだんと厳しくされていったのである。

おわりに:戦後も神社では続く菊紋の自粛

戦後は菊花紋章の使用に規制はなくなった。
もちろん無闇に乱用するようなことは誉められたことではないし、また類似したものも含めて商標登録を受けることもできない*29
とはいえ、商標のような特別な場合や詐欺などに使うのでもない限り、全面的に禁止するほどの法的根拠はなく、あくまでも使用に関しては法令上「自由」になっていると云っても良いのだろう。

では戦後の神社は、それまで規制を受けてきた菊花紋章についてどのような対応をとったのか。上述の官国幣社の制度も既に廃されている。

昭和20年に終戦を迎え、その後の占領政策における「神道指令」によって国家管理から離れた神社界は、昭和21年に神社本庁を設立した。全国の神社が寄り集まった民営による中央組織であり、実態として神祇院の事務もそれなりに引き継いでいる。
その神社本庁が、以下の昭和47年10月16日付通達第8号「菊花御紋章の尊重について」*30をもって、全国の神社庁(延いては神社・神職)に対して菊花紋章の取扱いに関する注意を促している。

 近時一般に菊花御紋章が濫用せられる傾向にあり、或は衣料の紋様に或は陶磁器に或は結婚式の案内状に又は記念頒布品の意匠に、その他広く用ひられるのをしばしば見受けるが、他の社会は兎も角我々神社人としては、戦後、法制上の基礎を失つたものと解せられるとは云へ、明治元年三月の太政官布告に始まる菊花御紋章の尊重・濫用禁止の精神を尊重して行くべきは当然であります。よつて最近毎年の本庁評議員会の決議を以て要望が昂まつてゐる「皇室の尊厳を守る運動」の一環としてもこの問題を再考自戒して行く事が強く要望せられます。昭和二十六年二月二十八日附本庁庁報第一四号八頁「菊花御紋章に就て」の記事も御参照の上、上述の趣旨に従ひ貴管内に御周知の上その遵守方を御勧奨願ひます。
 尚、戦前の制に於て神社に許されて居た菊花御紋章の使用範囲は、次の通りです。
一 国幣社の社殿の装飾(千木・堅魚木等)及社頭の幕・提燈
二 官祭招魂社(現指定護国神社)の社頭に用ふる幕と提燈
三 文化財として指定されて居る建物に従来より附着して居るもの
四 明治二年八月二十五日の太政官布告による禁止以前に神殿に装飾したもので其侭存置してゐるもの
五 明治元年三月の太政官布告以前に既に皇室等より寄進せられた什器等に附着したもので其侭保存せられてゐるもの

理念として、戦前の法規の趣旨に準じようとしていることが読み取れる。

この中で興味深いのは、「二 官祭招魂社(現指定護国神社)の社頭に用ふる幕と提燈」の部分だ。
通達文では戦前の制度において許可されていた範囲を示すとして列記しているが、上述のように昭和14年には護国神社の菊花紋章使用は幕や提灯についても新たに用いることが禁じられているので、より正確には昭和14年までの制度において許可されていた範囲ということになる。ただ、護国神社に移行してからの制度が参照されなかった理由はわからない*31

いずれにしても、現在神社に参拝して菊の紋を見かけるのは、こうした歴史があったうえでのもの。単に神道は古いからとか、その神社は皇室にゆかりがあるからだとか、戦前は「国家神道」だったからだとか、神社は尊皇だからだとか、一言で云い表せるようなものでもないということだ。

*1:皇室の菊花紋章はこの後鳥羽院を起源とすることが通説だが、近年では藤澤桜子氏がその博士論文「皇室紋章の起源と変遷」(平成28年度・広島大学)において、後鳥羽院の好みは遠因であるものの直接的には寛元4年(1246)に後嵯峨上皇後鳥羽院に擬する意図で用いたことが始まりだと指摘している(皇室紋章の起源と変遷 - 広島大学 学術情報リポジトリ)。

*2:改元が9月8日のため、この時点ではまだ慶応4年。

*3:『法令全書 慶応3年』(内閣官報局)76頁

*4:『法令全書 明治2年』(内閣官報局)101頁

*5:從來宮堂上ヨリ諸國寺院ヘ祈願所ト唱ヘ妄ニ菊 御紋附ノ品々寄附致候儀無謂次第ニ付堅ク禁止被 仰出候尤新ニ祈願所ニ致候儀モ一切不相成候此旨可相心得樣 御沙汰候事/ 但無據舊來之由緒以 御紋附ノ品其儘致寄附且新ニ祈願所ニ致置度分ハ其筋ヘ伺出可受御差圖候事

*6:留守官布告第981号。並びに留守官達無号「菊御紋改メノ件」(神祇院總務局監輯『最新神社法令要覧』(昭和16年8月25日、京文社)482頁)

*7:文部省文化局宗務課監修『明治以後宗教関係法令類纂』(昭和43年3月25日、第一法規)381頁

*8:親王家ニ而用来候菊紋葉替又ハ裏表等品ヲ替ヘ御紋ニ不紛様可致旨先般 御沙汰之通ニ候条右紋付之品々社寺ヘ致寄附候儀堅禁止被 仰出候事

*9:文部省文化局宗務課監修『明治以後宗教関係法令類纂』(昭和43年3月25日、第一法規)381頁

*10:神祇院總務局監輯『最新神社法令要覧』(昭和16年8月25日、京文社)482頁

*11:神祇院總務局監輯『最新神社法令要覧』(昭和16年8月25日、京文社)483頁

*12:神祇院總務局監輯『最新神社法令要覧』(昭和16年8月25日、京文社)483頁

*13:一般社寺ニ於テ菊御紋相用候儀不相成旨明治二年八月布告ノ趣モ候處右布告前神殿佛堂ニ粧飾シタル分ニ限リ其儘存シ置苦シカラス候此旨相達候事

*14:護国神社に指定されなかった官祭招魂社もある。

*15:當縣下招魂場合祀之儀本年四月二日附ヲ以テ相伺五月三十一日御許可ニ付當福島町之北信夫山ヘ一社ヲ建設即今事業中ニ有之候所右社殿唐戸并屋上勝男木ヘ菊花御紋章ヲ彫鏤候ヘハ於下民厚キ御仁典之程一層感佩可仕ニ付右御許容相成候様致度此段相伺候以上

*16:招魂社社殿ヘ菊御紋彫鏤イタシ度旨別紙之通福島縣ヨリ伺出候ニ付遂審査候処元来菊章之儀ニ付テハ戊辰年以来屢御布告モ有之官幣社及格別之由緒無之外ハ猥ニ用ユベカラサル制規ニ有之候処招魂社之儀ハ一般ノ神社共相異候儀ニテ殉難忠魂御吊意ノ為メ厚ク祭祀修繕等加ヘサセラレ候御趣意モ有之殊ニ東亰招魂社ニ於テハ歴然菊章ヲ相用居候儀ニ付府縣招魂社ト雖ドモ為相用不苦候哉類例モ無之ニ付此段相伺候也

*17:『太政類典』参照

*18:昭和8年9月10日、三省堂

*19:書面伺之趣社頭ニ用ユル幕提燈ニ限リ菊御紋章附着之義允許ス

*20:『神社協会雑誌』第35巻第8号(昭和11年8月5日)10頁

*21:もっともこれは国の対応であり、地方の神社行政の現場においてそれがどこまで徹底されていたのかは、やや疑問符がつく。 滋賀県公文書館所蔵資料検索システムで探すと、明治31年3月29日付で「官祭招魂社社殿の装飾及社頭の幕提灯に限り菊御紋章附着差支なし」という通牒が膳所招魂社・彦根招魂社に対して出されていたらしい(- 滋賀県立公文書館所蔵資料検索システム)。この通牒の原本は未確認だが、実際の府県と招魂社との事務上では社殿の装飾にも許可される事例があったのかもしれない。

*22:昭和14年3月15日・内務省令第12号。今では当たり前のように護国神社も神社だが、それを「神社」とすることや、「護国」という名称とするにも紆余曲折あった模様である。

*23:神祇院總務局監輯『最新神社法令要覧』(昭和16年8月25日、京文社)484頁

*24:昭和18年7月10日、良書普及会、79頁

*25:『皇室の御紋章(改訂版)』140〜141頁

*26:『皇室の御紋章』42〜46頁

*27:靖國神社誌』(靖国神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション)参照

*28:明治2年8月までの時点で招魂社の社殿がどの程度あったのかという疑問は感じるが。

*29:商標法第4条

*30:神社本庁規程類集』令和三年版(神社新報社)462頁

*31:佐野恵作『皇室の御紋章』の「菊御紋章使用許可の實例」では、菊花紋章が今日神社において許可せられている範囲は「(一)官幣社別格官幣社を含む)の社殿の装飾及社頭の幕提燈/(二)國幣社の社殿の装飾及社頭の幕提燈/(三)官祭招魂社の社頭に用ふる幕と提燈」だとまとめられており、通達文のものと表現が近く((一)と(二)を合成したものが通達文中の「一」、(三)に後の制度である護国神社を加えたものが通達文中の「二」)、改訂版でも附録部分を見なければ本書のこの部分をそのまま参照するということは十分あっただろう。