衒学屋さんのブログ

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「神社“を”参拝する」――資源活用事業#10

植戸万典(うえと かずのり)です。ニュースで「新しい生活様式」というワードを目にしながら、古来の風習のお中元で頂戴したビールを賞味する夏。お中元は「新しい生活様式」の仲間に入れてもらえたのでしょうか。

数年前には「震災後」なんて言われて、人と人との絆が云々と盛んに言われました。今は「ウィズ・コロナ」とか「ポスト・コロナ」とか言いながら、人と人との適度な距離感が求められています。
この「新しい日常」って、いつまで「新しい」のでしょうね。これが定着するのか、廃れてこの2020年という一時限りの「古い日常」になるか。意外とどんな状況でも「日常」にしてしまうのが人間のしぶとさなのですが。

今回は、令和2年5月18日付『神社新報』の「杜に想ふ」欄に寄稿したコラム「神社“を”参拝する」です。
神社参拝も「新しい生活様式」の仲間に入れられるのか、「古い日常」になるのか、という話では全然ありません。インターネット参拝と言葉遣いに関する、操觚者のちょっとした疑問です。

なお、相変わらず旧仮名遣ひは新仮名遣いに改めています。

コラム「神社“を”参拝する」

 世界中の宗教関係者にも「COVID-19」は課題となっている。集会などの従来の宗教活動そのものが感染拡大のリスクを孕んでおり、聖職者たちは各々対応に苦慮していよう。米国在住の知人によると、牧師がヴェランダに立ち、信者はドライヴイン・シアターのように乗車したままカーオーディオで説教を聞くという方法をとったキリスト教会もあるらしい。
 こうしたなかにあって宗教家には、それぞれの活動を見直すだけでなく、社会へ向けたその信仰に基づく意見も求められてくる。この困難な状況の理由やそれを超克するための「教え」が期待されているようだ。苦境において、科学的には「ありのまま」でしかない世界に、宗教はその世界をどう見るか提示することができる。それは宗教における本質的な意味での「広報」かも知れない。
 日本でもこのパンデミックにおける社寺の活動が間々注目されている。疫病の終熄祈願は宗教宗派を問わずされてきたことで、今回もそれが期待されたか。一方、統一的な「教え」を神社神道として説けるかとなると、やや難しい。古く疫病は祟りであり、それは屢々理不尽で、倫理的な意味での神罰とは些か異なっていた。
 神の祟りを鎮めてきたのは祭祀や法会だ。しかし崇敬者は今、その祭祀に参加ができない。祈るため社頭に詣でることも憚られている。そんな背景のなかで、一部でまたウェブ上の「参拝」に関心が寄せられている。
 神社界ではこれまで、祈祷も神縁品の拝受も直接の参拝を原則とし、代参や授与品の送付はそれが叶わない場合の例外としてきた。斯かる考えのもと、インターネットでの「参拝」も消極的な見解が強かった。これに賛否はあろうが、斯界が「参拝」という行為を、字義通り“参”った上で“拝”むことに重点を置いてきたことは確かだろう。
 参拝が「参って拝む」ことである以上、表現も「神社“に”参拝する」が自然だ。しかし最近、神社界でも「神社“を”参拝する」という表現が目につく。「参拝」が単に「拝む」だけの意味として認識されてきたのか、はたまた参拝からさらに先の行為を意図しているのかは不明だが、言葉が常に変化しているのと同期して、「参拝」という行為への理解も変わっている可能性もある。
 もっとも、だから「ウェブ参拝」が可能になったのだ、と一足飛びに主張するものでもない。現下は非常時なのだ。今はただ、宗教が人々に世界の見方を示す道具が言葉であると心得て、助詞ひとつと雖も疎かにしない気概を持つだけだ。
 古く病は鬼の仕業ともされた。そう云えば、漢文の訓読に「ヲニト会ったらそこヨリ返れ」という覚え方がある。神社“を”参拝にせよ、神社“に”参拝にせよ、いずれ今は鬼を避け、家に帰って遙拝したい。

(ライター・史学徒)

※『神社新報』(令和2年5月18日号)より

「神社“を”参拝する」のオーディオコメンタリーめいたもの

この「神社“を”参拝」問題、業界的にもなかなか難しいものがあります。

www.asahi.com

mainichi-kotoba.jp

今回のコラムを寄稿した『神社新報』的には、恐らく「神社に参拝する」で記事が作られているはずです。私が知る限り。

言葉は生き物とよく言ったもので何が正解ということでもないですが、言葉を使った生業をしている手前、助詞の1文字といえども意識して大切にしたいものです。

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